DAYS
STAY SALTY ...... means column
本トのこと
Satoko Kumagai Column
from Kyoto / Japan
熊谷聡子
絵本のこたち
京都・伏見の絵本屋さん「絵本のこたち」の店主。
絵本を通して、文化の伝承・交流などを通して、
想いや感じたことを発信中。
9.10.2024
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ぼくはひとりで
これを書いている8月末日の私は、かれこれ一週間、
台風10号の行方を見守っています。
先週の今頃は、とっくに東日本を通り抜けているだろうと見込んで
出張の予定を組んでいたのに、なんて遅いんでしょう。
徒歩ぐらいのスピードとか、自転車くらいのスピードとか、
それなら新幹線でビュンと行って帰ってこられるのではないかと思いましたが
九州に上陸したのに関西を通り越して東海や関東といった
遠隔地で大雨を降らせるという、暴風もですけど水害を引き起こす台風です。
もう、日本の四季は雨季を入れて五季でいいのではないかしら。
雨季を取り入れた生活様式に変えていかないといけないのではと思いました。
雨の季節になると道路も畑も水の下になるベトナムでは、
その時期、学校に行くのも舟を使います。
『ぼくはひとりで』のぼくの家も、水の上。
床を高くしていて、水に浸かってはいないようですね。
お父さんは夜中から釣りに出かけたし、
お母さんは食用の花を摘みに出かけています。
冠水してしまった、どうしようではなく、
雨の季節に応じたやるべきことが、それぞれにあるんですね。
さて、ぼくは、まだ日が昇らないうちに出かけます。
学校までは、どんなに遠いのでしょうか。
船頭さんのいる渡し船ではなく、自分で小舟を漕いで行くのです。
小学校低学年くらいの、こんな小さな子が舟を漕げるのかしらと思いますが、
少年は慣れたもの。木のてっぺんや屋根の先の間を小舟に揺られながら、進みます。
それでも、急な風に吹かれるし、雨には降られ、水の中にはワニも潜んでいます。
学校までの道のりが、もう、大冒険。
湿気を含んだ闇をふり払い、川の流れに運ばれて森を抜けると
朝日を受けて空を舞う大きな鳥の翼、無数の魚たちが迎えます。
なんて豊かなんだろう。満たされているんだろう。
私のいる京都では発生する地域の名前に由来する豪雨に
丹波太郎や山城次郎と名前がついているそうです。
ゲリラ豪雨よりも、雨と共にある暮らしに近い感じがしますね。
道路冠水時の移動手段にゴムボートやカヌーを備えておくのもいいかもしれません。
ところで、丹波太郎も山城次郎もどこに行ったのだろう。
台風10号に吹き飛ばされたのかな。
Book 『ぼくはひとりで』
作・絵 フン・グエン・クアン/フイン・キム・リエン
原書編集 ダフネ・リー
訳者 はっとりこまこ
冨山房インターナショナル
7.1.2024
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
きみがいるから
最初に申し上げたいのですけど、わたしは犬派なんです。
子どもの頃に飼っていたのも犬ですし、
SNSのアイコンにもしているのも愛犬の白柴の女の子です。
人間の年齢でいうなら中年女性。わたしと同じくらい。
目の周りのできものとお腹の具合がすぐ悪くなるので
薬が欠かせないのもわたしと同じ。犬は生涯の伴走者ですね。
犬派のわたしですが、猫との思い出があります。
小学生の頃にひと晩だけ、仔猫を預かったことがあります。
友だちが猫を拾うも、ご家族の許しが出ず、翌日、
一緒に飼い主を探す約束で、ひと晩だけわたしの部屋で過ごしました。
ところが仔猫は寝床を作ったのに、どうもお気に召さないようで、
部屋の柱でカリカリと爪を研いだり、か細くも不満げな声で
いつまでも、ニャーニャーと鳴いていました。
わたしはとにかく、おどかさないように
息を潜めてベッドで寝たふりをしていると脛のあたりが温かい。
寝ている私の両脛の間の窪みに、すっぽりとおさまって丸くなっている。
容易にさわらせないくせに、脛の間で寝ますか。
撫でることもできないどころか、寝返りができない。
大体、わたしは寝つきが悪く、寝入るまでに軽く30往復くらいは
寝返りを打つのがルーチンなのですが、
脛の間に仔猫という楔を打ちこまれている。
なんとういう頼りなげな、なんという解きがたい拘束。
ひと晩中まんじりともせず、ぼんやりとした頭で朝を迎えると
友だちのお家で飼ってよいとお許しが出たらしく
あっさりと連れていかれたような気がするのですが、
その辺りの記憶が定かでないのは心の防衛反応か、寝不足か。
前置きが長くなりましたが、『きみがいるから』の作者の
くさかみなこさんも、保護猫さんと暮らしておられるそうです。
環境の違うところに連れてこられた仔猫の気持ち。
あの子もきっと不安だったのだろうな。
絵は木彫りの動物の作品で人気のはしもとみおさん。
仔猫のか弱く緊張気味の表情が、徐々にゆるんで信頼をよせ
態度がデカくなって(もちろん、いい意味で)いく過程が見事に描かれています。
猫派になってもいいかな……
保護したはずの猫に、いつのまにか支えられてる。
どんなに落ち込んだ時でも大丈夫。
きみがいるから。
Book 『きみがいるから』
4.15.2024
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ちいさい舟
『ちいさい舟』は、美術家として制作活動する熊谷誠の美術作品を編集し文をつけて、絵本にしました。
ひと続きの物語にすることで、鑑賞者はより自分に引き寄せて自身の物語を重ねて観やすくなるのではという試みです。
熊谷のほとんどの作品は家族に関わる事物やそれに関する作家の感覚的なものが基盤になっています。
『ちいさい舟』は、作家の生家の屋根裏に仕舞われていた舟がモチーフになっています。
なぜ、屋根裏に舟があったのか。
作家の暮らす京都市伏見区は、万葉集にも歌われた巨椋池周辺の横大路沼に接していました。
巨椋池は水害と治水工事を繰り返し、昭和の干拓事業で今は記録にのこるのみになりましたが、古い家には水害時用に舟を棄てずに備えていたのでした。
作家本人は頭上に舟が横たわっていることを知らずに育ったといいます。
屋根裏で出番もなくひっそりと待機していた舟の存在は、穏やかな年月が何十年も続いた裏付けでもありました。
そして、もっと昔、自分の生まれる前は日常的に舟が行き来していたのだろう。
移動手段や漁の道具として穏やかな日々に舟が活用されていたのだろう。
ちいさい舟は、大きな時間の流れと変容の続きに現在があることを実感させるものでした。
それは、全国のどこででも起きていることでもあるのでしょう。
昔むかし、このあたりには川が流れててね…
遠くの山まで見渡せてね…
『ちいさい舟』が、そんな風に、大人から子どもへ、それぞれの昔ばなしが語られるきっかけになればこんなに嬉しいことはありません。
Book 『ちいさい舟』
2.10.2024
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
みんなのいえ
家の絵本が好きです。
おそらく、絵本が好きだと自覚したきっかけになった
安野光雅さんの『ふしぎなえ』のワクワクを思い起こさせるからでしょう。
小さな家にわらわらととんがり帽子の人々が集い、
それぞれに何か仕事をしたり、くつろいだりふざけたりしている。
てんでんばらばらなことをしているのに、なんだか平和。
たしろちさとさんの『みんなのいえ』の表紙も、
そういう雰囲気があって、あーこれはいいなーと開く前から思ったのでした。
表紙を開くと意表をつかれました。
表見返しには、黒地にシルバーの線で描かれた寂れた家。
壁も屋根も崩れたところが目立ち、あちこちに蜘蛛の巣が張っています。
なんて、寂しい……
そこへ、旅人がひとり、またひとりと増えていきます。
屋根や壁を直し、明るい光の入る窓を作り、
家のそばでは畑も耕し、家具も作ります。
安野光雅『旅の絵本』の旅人は、通り過ぎていくけれど、
『みんなのいえ』の旅人は家にとどまり、家を直すという仕事を始めます。
木をけずったり、土をこねてレンガを作るところからやるんですよ。
家づくりの過程を見るのも楽しい絵本です。
自分はあの部屋がいいな、この部屋はこんなふうに使いたいなと
つい、考えてしまいますね。
私が好きなのは、家のほぼ真ん中に位置する小さな部屋。
最初についたサンタクロースみたいなひげの旅人の書斎のようです。
季節ごとの日記が増えています。
どんな日記なのでしょう?
おもしろい長編ドキュメンタリーになりそうですね。
みんなのいえでは暮らしに必要なものを、みんなで整えていきます。
生きていくのに必要なもの、なんでしょうね。
雨風を避ける家、食べ物、工夫できる知恵、必要なものを作り出せる技術。
娯楽、語らう仲間、プライバシーを守る壁も必要ですね。
それに仕事。家をつくるのは終わりのないプロジェクトです。
みんなのいえはあたたかく、必要なものが揃っています。
みんなで作りあげた家だから。
Book 『みんなのいえ』
12.10.2023
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ブレーメンのおんがくたい
年の瀬が近づくと読みたくなるお話があります。
グリム童話の『ブレーメンのおんがくたい』です。
ロバは長い間、重い荷物を運ぶ仕事をしていましたが、
年をとって、若い頃ほどには働けなくなりました。
すると飼い主はエサをやらなくなります。
そこでロバは察するんですね。
自分はもう、主人の役には立てなくなってしまった。
ここには自分の居場所はないんだと、大粒の涙を流し
しかし、空気を読んで自ら出ていきます。
そんなひどいことがありますか。
「お前は出てお行き」と言うわけでもなく、
エサをやらずに自ら出ていくように仕向ける。
ひどい話だなぁと、幼い私は憤慨しておりました。
そしてロバは、ブレーメンを目指します。
町の音楽隊に雇ってもらおうと考えたわけです。
そこで疑問が芽生えます。
ロバはいつ、音楽の素養を身につけたのか。
私なら、音楽を演奏して生きていけるなら若いうちから演奏家を選ぶけれど。
荷物運びの方が雇用が安定してたのか。
それとも、仕事一辺倒ではなく、余暇には音楽を楽しんでいるうちに
演奏の腕を磨き、第二の人生に音楽家という選択肢を獲得したのか。
後者だといいですね。自分もそうありたい。
ところで、ブレーメンってどんなところなんでしょうか。
おそらく、物語の舞台でいう京の都みたいなに賑やかで
様々な人が行き交う、活気あふれる大都会。
通りや広場には大小さまざまな音楽隊が演奏しているのでしょうね。
それとも、ホールで演奏する大オーケストラかしら。
オーケストラで演奏されるのは、ベートーベンの「第九」。
このあたりで『ブレーメンのおんがくたい』と年末のイメージが
クロスオーバーしてますね。
「第九」といったら大人数ですから、
リタイアしたてで演奏家としては新人のロバでも、
ひょっとしたら入れてもらえるかもしれません。
それからロバは、犬や猫やおんどりを誘いブレーメンを目指します。
こうなると「第九」じゃないな。
<ロバとゆかいななかまたち>で通りや広場で演奏するのだな。
どんな音楽隊になるのだろうとワクワクして読み進みます。
そうして、ロバとゆかいななかまたちは、夜更けに森の中の一軒家を見つけます。
空は満天の星。灯りのもれる家の窓も動物たちの瞳も星のように輝いてます。
家では、泥棒たちがごちそうを広げて飲んだり食べたりしています。
クリスマスとか忘年会とか、この辺りも年の瀬のイメージを濃くしますね。
その後はご存知の通りですが、家にいたのは本当に泥棒だったのでしょうか。
ロバが泥棒だと言ったからなんですが、どうして泥棒だと分かったのでしょうか。
ただ、テーブルについて飲み食いしていただけなのに。
もしかすると、人間のことを泥棒とたとえて言ったのかもしれません。
人間たちは、散々、動物たちを働かせておいて
年をとると、長年の労も称えず無慈悲に使い捨てるのですから。
動物たちから、泥棒と呼ばれても仕方ないのかもしれません。
察しのいいロバのことですから、他のメンバーのモチベーションを上げるにも
「泥棒」と言ったほうがいいと瞬時に判断したのかもしれません。
ロバの素晴らしいリーダーシップによって、
君たち、年老いて捨てられるところじゃなかったのか、と思うくらいの
パフォーマンスを披露するのが痛快ですね。
ロバの飼い主は惜しいことをしました。
そして、私がこのお話の何よりも気に入っているところは、
結局、ブレーメンには行かないという結末ですね。
予定は未定です。ゴールはひとつじゃありません。
自分が居心地よく過ごせる場所が見つかったのなら、
そこがゴールでいいですよね。
Book 『ブレーメンのおんがくたい』
10.15.2023
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ゆうやけにとけていく
暗くなるまでに家に帰る。
それが、子どものころの約束事。
自転車を漕ぐ足に力を込めながら眺めるゆうやけは
きれいだなと思う一方、憎らしくもあった。
ザ・キャビンカンパニー作『ゆうやけにとけていく』(小学館)は、
ノスタルジーを呼び覚ます。
刻一刻と移り変わる空の色と家路を急ぐ気持ちも同時に。
最初の見開きには、まだ空の青も鮮やかにのこっている。
山の端からじわじわと染まる夕焼けが、麦畑を金色に染める。
麦がゆれる。鳥よけの鷹も揺れる。
一日の労働を終えた夫婦の姿は、ミレーの<晩鐘>の引用だろう。
祈りを捧げているようにも、互いを労うようにも見える。
幸せを噛みしめているようにも見える。
ゆうやけに染まる空の色は様々で、ゆうやけに照らされる人々も様々。
様々な一日を過ごし、様々な気持ちを明日に持ちこすのだろう。
様々だけれども、みな一様に、ゆうやけに照らされ、とけていく。
人も鳥も、犬や猫も、木々も風も。
おばあさんの膝の上で、あの子がアルバムをみている。
その部屋の壁にかかるのは、ゴッホの<種まく人>だ。
貧しい農夫を描いたミレーをゴッホは敬愛し、
ミレーと同じ主題に取り組んだ。
ゴッホの<種まく人>の強烈な光を放つ夕日は、
種をまく農夫を力強く見守っているかのようだ。
あるいは、労働や生産を賛美しているかのようにも見える。
ミレーの<晩鐘>から始まり、ゴッホの<種まく人>が盛り込まれている
『ゆうやけに とけていく』には、創作への深い敬意が感じられる。
もう、半分以上、顔を隠した夕日の上を人の顔をした鳥たちがこえていく。
平和を象徴するハトのようだ。
ざわめきが静まり、夜の帳がおりる。
すべてをとかしたゆうやけが夜にとけていく。
「急がないと怒られる」そんな子どもの気持ちから平和の祈りまで、
ゆうやけは分け隔てなくとかしていく。
しずかな夜に。
Book 『ゆうやけにとけていく』
6.10.2023
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
なんにもおきない まほうのいちにち
「いいかげん、ゲームはやめたらどう?」
私も何度、息子たちにこの言葉をかけただろう。
ゲームの他にすることないの?
ないみたい。
あんまりゲームばっかりしてるから、習い事させたり
犬を飼ったりしたのに、やっぱりゲームばかりしている。
『なんにもおきない まほうのいちにち』のぼくは、
休みのたびにママと行く家がある。
森の奥にあって、いつも雨が降っている。
ママは毎日、だまってパソコンに向かって書き物をしている。
なのに、ぼくにはゲームばかりするなと言う。
ゲームの他にしたいことなんか何もないというのに、
雨の降る森で、一体、なにをすればいいというのだろう?
家の外は退屈で満たされている。
そう思っていたぼく。
沼の水は息ができないほど冷たく、雨が背中をたたく。
カタツムリのつのはゼリーみたいにぷよぷよ。
きのこのにおいがなつかしい。おじいちゃんの物置のにおいだ。
ドラムの音がなりひびく。ぼくの心臓の音。
家の外に出て、世界にふれた瞬間から五感が目覚めていく。
はじめは陰鬱な森の中に閉じ込められたように寂しそうなぼくが
なんにもないと思っていた森の豊かさに気づき、
次々とドアが開いていくように、世界と出会い、繋がっていく。
確かな世界を実感することは、自分の存在を実感することだ。
自然に対してだけではなく、他者を知ることで相対的に自分を知る。
デジタル時代に生きる私たちは、どれだけ世界にふれているのだろう?
どれだけ確かな自分を感じているだろう?
冒険を終えて家にもどったぼくは、鏡の中にパパの面影をみる。
部屋の静けさとホットチョコレートの香りをママと共有した。
なんにもおきない、最高の一日。
Book 『なんにもおきない まほうのいちにち』
4.10.2023
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ナンティー・ソロ 子どもたちを鳥にかえたひと
ナンティー・ソロっていう名前からしてステキ。
ナンティーっていう親しみやすい響きに、単独を意味するソロがまた良い。
謎めいた名前のその人は、子どもたちを鳥にかえることが出来るんですって。
ひょっとして、実在の人物をモデルにしてるのかな、
鳥にかえるって、どういうことだろう?
イラストを担当するローラ・カーリンは、デビュー作の『やくそく』(the Iron Man)(BL出版)でボローニャ・ラガッツィ賞フィクションの部優秀賞を受賞。
『空の王さま』(King of the sky)(BL出版)でも、他人との心のふれあいから、子どもが自分自身を獲得し羽ばたいていく様を、しっとりと情緒深く、けれども圧のない筆致で軽やかに美しく描き出す。
なるほど、ローラ・カーリン以外に『ナンティー・ソロ 子どもたちを鳥にかえたひと』にふさわしいイラストレーターはいるだろうか。
ある日、町にあらわれたひとりの女、ナンティー・ソロは、
自分は子どもたちを鳥にかえられるのだと言いました。
大人は信じないだけでなく警戒し、子どもたちを近づけないようにしました。
けれど、やっぱり近づく子がいます。
好奇心をおさえきれないのか、あるいは真実が見えるのか。
大人を置き去りに、自由に空を飛び、歌をくちずさむ子どもたちの姿を見ても、大人たちは、ますます恐れ、慌てふためくばかり。
ああ、そうだ。自由になることは、とても恐ろしい。
自由に羽ばたけたら気持ちがいいんだろうな。
美しい歌が歌えたら楽しいだろうな。
そうは思っていても、いざ、自分が同じように出来るとは思えない。
大人とは、そういうもの。
自由になることは、とても難しい。
でも、本当にそうだろうか。
自由になれると心から信じているだろうか。
ナンティー・ソロは何者だったのだろう?
彼女は今どこにいるのだろう?
誰も彼女になれないのだろうか?
Book 『ナンティー・ソロ 子どもたちを鳥にかえたひと』
2.8.2023
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
まよなかのゆうえんち
本の表紙をめくるとあらわれる最初の見開きを見返しといいます。
表紙と本文をつなぐ役割をしている見返しには
デザイナーの工夫が見られますね。
印刷のない真っ白の見返しもスッキリして、しかもゆとりを感じますし
本のイメージに合わせた色の特殊紙や単色の印刷もいい。
『まよなかのゆうえんち』は、本文同様4色印刷で扉を開く前の
見返しから、プロローグが始まっています。
木の陰には動物たち。明るい広場には数台のトラックが乗り入れています。
変わった形の物体は何をするものでしょう?
この絵本は森の動物たちからみたお話です。
言葉はありません。文字のない絵本です。
トラックが運んできたのは移動遊園地です。
昼間は多くの人間たちで賑わい、やがて、夜。
動物たちの時間です。
煌びやかに輝くネオン、跳ね上がるポップコーン。
コーヒーカップが回る回る回る……
幻想的な光と影の表現にうっとりとします。
音楽や歓声が聞こえてきそうな、ダイナミックな絵が
これでもか、これでもかと続きます。
きっと真夜中の遊園地の方が素敵ですね。
人間たちが知らない楽しみ。動物たちがうらやましい!
空が白み始める頃、お楽しみの時間はおしまい。
人間と交替ですね。けれど、そこここに侵入者の痕跡があります。
よく考えると、動物たちはずいぶん慣れていましたね。
犬のホットドッグ屋さんなんて本職としか思えません。
掃除もして、お土産も持ち帰っています。
遊園地で遊ぶのは初めてではないみたい。
もしかすると、人間と動物は、私たちが思っているよりも
たくさんのものを共有しているのかもしれません。
そして人間が作り出したものを動物たちは持ち帰っています。
森に山に川に。
おそらく人間が足を踏み入れたことのない場所にも。
様々なものを介して、人間は環境に影響を及ぼしています。
動物からも影響を受けていることでしょう。
移動遊園地は去っていきます。
最初の見返しと最後の見返しを見比べてみると、
トラックは何も残さず去ったように見えます。
何も残さず。
けれど、また、いつかやってくるでしょう。
動物たちもそれを知っているでしょう。
Book 『まよなかのゆうえんち』
12.15.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
世界はこんなに美しい
2022年が暮れようとしています。
なんて長い一年だったのでしょうか。
コロナ禍は終息するどころか8波を迎え、
北京冬季五輪の最中にロシアがウクライナに侵攻し、
参院選の最中に元首相が暗殺され、
W杯の最中にドイツでクーデターが企てられる。
2022年は暮れようとしているのに
さまざまな出来事は終わりが見えない。
それでも、年が変われば何か変わるかも。
そんな期待を抱かずにいられない。
2023年は、よい年でありますように。
半世紀前の1973年。
ひとりの女性がバイクで世界一周するという冒険に出ました。
アンヌ=フランス・ドートヴィル。
28歳の出発です。
未知の場所へ行ってみたい。
少しの荷物を持って、125ccのカワサキのバイクに乗り、
パリを離れると、バイクの故障や嵐など、
数々の困難を乗り越え、4ヶ月をかけて世界を横断しました。
アンヌの書いたバイク紀行はフランスで大きな話題になり、
著書にこう記しました。
ー世界は美しくあってほしい、そして世界は美しかった。
人間はよいものであってほしい、そして人間はよき人々だった。ー
『世界はこんなに美しい』は、アンヌ=フランス・ドートヴィルをモデルに
『ルイーズ・ブルジョワ 糸とクモの彫刻家』(西村書店)などの
伝記物語もある、エイミー・ノヴェスキーが文を書きました。
ジュリー・モースタッドの絵は、繊細で柔らかく、軽やかでしかも強い。
アンヌの首に巻かれたシルクのスカーフも
きっとこんなふうに風になびいていたのではないかと想像します。
まだ女性の社会進出が現代ほどではなかった時代に、
どれほど多くの女性たちに勇気を与えたことでしょうか。
それにバイク乗りたちにも。
半世紀前。自由を求めて旅立つ女性がいた。
世界は明るく開かれていた。
アンヌが駆け抜けたいくつかの場所は、すっかり変わってしまい
もう二度と誰の目にも触れることが出来ない場所もあります。
それでも、世界は美しくあってほしい。
人間はよいものであってほしいと願い続ける。
2023年が、よい年でありますように。
Book 『世界はこんなに美しい』
11.7.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
アルメット
表紙の少女をご覧いただきたい。
髪は伸び放題。袖口のほつれた服は着たきりなのだろう。
目の周りにはクマができてるし鼻の頭は赤くて寒そう。
それなのに、口元には穏やかな笑みをたたえ、
真っ直ぐに持つマッチ棒は王笏のような威厳を漂わせている。
下部にALLUMETTEと名前が記され、選挙ポスターのようにも見えます。
アルメットはマッチ売りの少女。
親も帰る家もなく、捨てられた車で寝泊まりしています。
クリスマスが近づいてきて、街が華やかなムードに包まれても
誰も彼もがアルメットをどこかに失せろと追い立てます。
かわいそうなアルメットは息も絶え絶えに祈ります。
すると、はげしいカミナリとともに、アルメットが欲しいと願った
ものというもの、あらゆるものが降ってきて……
作者は、『すてきな三にんぐみ』(偕成社)等で
多くの子どもたちの心を虜にしているトミー・ウンゲラー。
フランスに生まれ、第二次世界大戦をくぐり抜け、
渡米してからは、絵本の仕事のほか、雑誌や広告で風刺画などでも活躍し、
ベトナム戦争や人種差別など政治的メッセージを込めた作品も手がけました。
仕事が安定するまでは、食べる物にも事欠く苦労を経験しました。
『アルメット』は1974年の作品で、子ども向け絵本の仕事は
これを最後にしていますが、非常に激しい思いのこもった一冊です。
『アルメット』の完全に狂った世界は、心地よいものではないけれど、
世界のどこかで起きている現実なのだと、私たち大人は知っています。
ひもじい思いをする人がいる一方で、
物質的には満たされているのに心が貧しい人がいる。
物はないところには何もなく、あるところには溢れている。
本当に必要としている人は、忘れられた街の片隅にひっそりと暮らしている。
世界のどこかで絶えず起こり続ける災害や、戦争や、パンデミックに
手伝いを申し出る人、寄付をする人、状況を利用しようとする権力者。
それでも人々の多くは、困難を乗り越えるために助け合う選択をします。
アンデルセンには言いづらいけれど、マッチ売りの少女は生き延びて欲しい。
Book 『アルメット』
10.7.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
星どろぼう
花どろぼうは罪にならないといいますけど、星どろぼうはどうなのでしょう?
その泥棒は山のてっぺんにひとりで住んで、空の星にさわりたいと思っていました。
山のてっぺんでひとり、毎夜、星を眺めていたのでしょうね。
人よりも星の方が近くに感じられたのかもしれません。
心の奥では、自分だけの星が欲しいと思っていました。
心に星が灯ればどんなに心強いことでしょうか。
もっと心の奥深くでは、星を全部独り占めしたいと思っていました。
ここまでいくと欲張りですね。
でも、夜空の星を全て手に入れるって壮大でロマンチックです。
ある晩のこと、とうとう、泥棒は夜空の星を全部、盗んでしまいました。
けれど、星は誰のものでもありません。
手を伸ばせば手に入れることが出来るものでも、ひとり占めはいけません。
年寄りは知恵を出し、若者は勇気を出して泥棒を捕まえます。
村人たちは泥棒のしたことを口々に非難し、赦しません。
子どもたちにも星を触ってはいけないと教えているのに、大人が約束を破ってしまっては、子どもたちに何と説明したらいいのでしょうか。
さて、肝心なことは星空に元に戻すことですが、でも、どうやって?
『星どろぼう』は、アンドレア・ディノトが子ども向けに書いた初めての作品です。伝えたいことが樽いっぱいの星のように詰まっています。
心の奥に潜む欲望といった暗い部分も描きながら、ほっこり温かいコミカルに動き出しそう。
星を詰めた樽を抱えて走る泥棒は、無邪気な子どものよう。
罪とはなんでしょう? ふさわしい罰とはなんでしょうか。
罪びとは願い事をする資格もないのでしょうか。
空の星をさわることと地上の星をさわることは、どう違うのでしょうか。
赦しとはなんでしょうか。
Book 『星どろぼう』
9.5.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
いぬ
ペットは犬がいい。犬は散歩が出来る。
私が最初に犬を飼ったのは、小学校3年生の時。
毛が長く垂れ耳の洋犬の雰囲気のある雑種犬。
小学校の周りをうろついて、
児童たちから給食の残りのパンをもらっていた。
その犬を家の近くで見かけ、
早起きして牛乳をあげてるうちに、私の犬になった。
犬と一緒なら夕暮れの山の中でも、どこでも行ける。
私はすぐ、ひとりになりたくなるので、
犬は格好の口実になった。
野山が切り拓かれ新興住宅地に変わっていく様子を犬と眺めた。
いよいよ犬の最期の日が近づいた時、
腕に抱きかかえて、いつも散歩に通った山に登った。
ぐったりして過ごすことが多かった犬が、
その時だけは耳を澄ますように、何かを嗅ぎとろうとするように
私の肩に顎をのせ、クゥクゥと喉を鳴らしていた。
そんな風にして、私は犬とかけがえのない時間を過ごした。
一万五千年も昔から、世界のあちこちで、
人間と犬がそうしてきたように一緒に過ごして別れた。
ショーン・タンの『いぬ』に描かれている犬は、
私の犬とはどれとも似ていないのに、この感じを知っている。
人間と犬は、とても違うのに、とても近しい。
犬と一緒なら、歩いて行ける。
犬は私の孤独を完全なものにしてくれる。
Book 『いぬ』
7.11.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
海のてがみのゆうびんや
海崖の小さな家にひとり暮らすのは、海のてがみのゆうびんや。
波にゆられて流れ着いた、ガラスの瓶をすくいあげ、
手紙が入っていたら届けます。
どんな手紙も、必ず受け取る人がいます。
ある日、すくあげた手紙は宛名もなく、差出人も不明のパーティーの招待状。
海のてがみのゆうびんやは仕方なく、
ひとりひとりを訪ねて回ります。
エリン・E・ステッドの滑らかで柔らかな鉛筆のタッチが心を和ませます。
木版画で表す美しい木目は、そよぐ風に揺らめく波のようで、掠れた色は自信無さげなゆうびんやの少しざらついた心のよう。
詩情豊かなイラストそのままに、美しい言葉で物語が綴られます。
海のてがみのゆうびんやは、誠実で謙虚な男。
届けた手紙が、真珠貝のように宝物を宿していることを知っていても、自分の仕事の大切さをひけらかすようなことはしません。
だけど、自分はただの一度も手紙を受け取ったことがなく、友だちもいなければ、名前すらないといいます。
名前がないということは、どういうことでしょうか?
「郵便屋さん」という仕事でのみ、人と関わっているということでしょうか。
仕事や役割でのみよばれるということでしょうか。
「お巡りさん」「先生」「店員さん」「看護師さん」「お母さん」
わたしたちも人に対して、その仕事や役割を果たすことだけを求めているということはないでしょうか。
効率的で、誰がやっても均質なサービスであることをよしとする。
その人の勤勉さ、誠実さが支えている仕事や役割を、その職業だから当たり前と思ってはいないでしょうか。
海のてがみのゆうびんやがすくいあげた、宛名も差出人もない手紙は、とても魅力的だけれど不完全です。
完全な手紙であればポストに投函して完了したものが、その不完全さゆえに、顔と顔を合わせ、コミュニケーションを生み出します。
もしかしたら、仕事を介してしか人と関われないと思っていたのは、ゆうびんやの方だったのかもしれません。
人々が待っているのは手紙であって、自分じゃないと思っていたかもしれません。
大切な手紙を大切に届けてくれる。それがどんなに嬉しいことか、彼は知らないのかもしれません。
でももう、そんなことは大きな問題ではないでしょう。
明日からも大切に手紙を届けます。
自分を待っている人に。
Book 『海のてがみのゆうびんや』
5.5.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
サンサロようふく店
町なかの三叉路に洋服店ができました。
まだ、みんなが民族服を着ていたころです。
三叉路にあるサンサロようふく店のあるじはドックさん。
ついに見えた最初にお客様。
じっくり生地を選日、きっちりサイズをはかり
しっかり型紙をとって、ぴったりの洋服を仕立てました。
満足そうなお客様の顔を見て、ドックさんは
「ああ、よかった」と思うのでした。
時代はうつりかわり、戦争が始まると店も町もボロボロになります。
みんなが洋服を着るようになり、町には洋服店がたくさんできました。
やがて、大量生産の安くて似たような洋服が溢れかえるようになります。
受け継がれてきた技術を大事に、丁寧に心を込めて作るやり方は
時代に合わないのでしょうか?
いやいや、そうではないと思いたい。
安くて買いやすい既製品が大量にあふれていても、
人もみんな規格サイズになるわけでなし。
個性や特別な思い出がなくなるわけでもなし。
機械化しきれない技術や心配りはあるのではないでしょうか。
たくさんの人にとって便利でなくても、
たったひとりの必要としている人に特別を届ける。
「しあわせだなぁ」と思える仕事って、なんて素敵。
Book 『サンサロようふく店』
4.5.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
おおきなかぜのよる
部屋の中から外を見ている、りくくんは、
風に舞う葉っぱをつかもうとしているようです。
ひゅー ひゅるー
「すごいかぜね」と語りかけるのはお母さん。
「だれか いっしょに あそぼうよって ないてるみたい」
りくくんには、かぜの音がさびしそうな泣き声に聞こえるみたい。
風は がたん がたんと、窓も揺らします。
りくくんは外が気になっているようです。ちょっと怖い気もします。
その時!
2020年の『あいたいな』(ひだまり舎)で、
絵本作家デビューされた阿部結さん。
続いて『ねたふりゆうちゃん』(白泉社)、
『おやつどろぼう』(こどものとも2021年8月号 福音館書店)と
立て続けに刊行される注目の作家さん。
阿部結さんの絵本は、子どもが感じていることそのままに、
子どもが見ている夢をそのまま再現されているように思います。
どうして、こんなに子どもの気持ちがわかるのだろう?
風に乗って夜空を飛んでいくなんて、憧れますね。
お腹いっぱいのおやつを食べて綿菓子のお布団で眠ったり、
ぽかぽかお昼寝。
そういうと、眠る場面が多いです。
気持ちよく眠れるって最高に幸せですもんね。
物語の中ではモヤモヤしたり不安になったりしていても、幸福感で満たされています。
そんな世界で、子どもたちは自由に想像力を羽ばたかせるのではないでしょうか。
そして、なんといっても描かれている子どもが魅力いっぱい。
甘えん坊でちゃっかりしてて、好奇心いっぱいで、
風船みたいにまん丸いお顔は可能性でパンパンにふくらんでいるようです。
おおきなかぜに吹かれて飛ばされても遊びにしちゃう。
どんな冒険も乗りきって、ちゃーんと帰ってきます。
いくつもの夢を旅して子どもは大きくなっていくのでしょうね。
Book 『おおきなかぜのよる』
2.5.2022
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
スーツケース
ある日、見なれない動物がやってきた。
ずいぶん、くたびれているよう。
大きなスーツケースを引きずっている。
一体、何が入っているの?
少々、ぶしつけにたずねると、見なれない動物はこたえました。
だけど、それって本当?
海を渡って、ようやくたどり着いた見知らぬ動物に、
みんなは疑念を抱き、好奇心のままに荷物をこじ開ける。
疲れ果てた見知らぬ動物が、ちょっとだけ休んでいる間に。
そこにどんな思いが詰まっているかも知らないで。
どうして、そんな乱暴なことができたのでしょうね。
他人の持ち物を勝手にこじ開けるなんて。
見知らぬ相手だから、言ってることが信じられないから
無礼を働いてもいいのでしょうか。
私の小学生時代、校区に規模の大きな新興住宅地が出来ました。
新学期ごとに、ひとりかふたりは転校生がやって来て、
その度に転校生を囲んで、どこから来たの? 家はどこ?
教科書は一緒? 何か習い事してるの?
と質問攻めにしていました。
それを好意として受け取る人もいれば、困惑した表情を浮かべる人も。
引っ越しを楽しみにして来た人もいれば、
慣れた環境を離れることを心細く思っていた人もいただろうに。
いろんな事情で海を渡ってやってくる人がいます。
夢をもって来日する人もいれば、命からがらたどり着く人も。
どんな思いで、どんな困難を乗り越えてきたか
話したい人もいれば、話したくない人もいるでしょう。
見知らぬ人をどうやって、迎えたらいいだろう?
社会全体で考えたいことです。
見知らぬ動物が目を覚ました時、
何を目にしたと思う?
Book 『スーツケース』
12.5.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
すきなものみっつ なあに
ティブルの大好きなおじいちゃんは、少し元気がありません。
いつも庭仕事ばかりしていて、話しかけても聞こえないみたい。
ティブルは聞いてみました。
「おじいちゃんの すきな サンドイッチみっつは、なあに」
「おじいちゃんの すきな クラゲみっつは、なあに」
少しずつ会話がうまれ、おじいちゃんからも
「おまえの すきな おでかけみっつは、なんだい」と
問いかけられるようになりました。
おじいちゃん、前より元気になったみたい。
少し偏屈なところがあるおじいちゃんなのかな? と思っていたら、
おじいちゃんは本当は思いやりが深くてお茶目で、
ティブルのよき遊び相手だったのですね。
幻想的な美しいイラストレーションは
スウェーデン生まれのダニエル・イグヌス。
子ども向けの絵本のほか、ファッションイラストレーションでも
高い評価を得ているアーティストです。
心がどこかに行ってしまったおじいちゃんと無垢なティブルを
最初は静かに、次第に力強く瑞々しい色彩で潤すように包み込みます。
後半で、おじいちゃんの元気がなかったわけがわかりました。
ティブルの無邪気さが、おじいちゃんの心の扉を開きます。
おじいちゃんが思っていたことをティブルが言葉にしました。
本当は、ティブルはまだ小さすぎて
おじいちゃんの悲しみがわからないのかもしれません。
だけど、おじいちゃんの目には、ティブルの小さい胸の中に
星のように輝く思い出が見えたのでしょう。
大丈夫。
悲しみも寂しさも、ティブルと分かち合えます。
そしてきっと、星はふたりを見守っています。
Book 『すきなものみっつ なあに』
11.5.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
わたしのバイソン
4歳のある春の日、女の子は母に連れられ出かけた草原でバイソンに出会う。
ちっちゃな女の子とおっきなバイソンは心を通わせ、
バイソンは仲間のもとに帰っても、雪が降る頃には必ず戻ってくる。
そして女の子とバイソンは、冬の間を共に過ごす。何年も何年も。
そらも もりも とりも、
バイソンが いなくて さみしそう。
これは、バイソンが去った最初の不在の時の女の子の気持ち。
世界が違って見える。自由に羽ばたく鳥さえも、さみしそうに見える。
バイソンに出会う前には抱いたことのない感情でしょう。
大切な存在があるからこそ感じる不在の大きさ。
雪が降る頃、ちっちゃな女の子とおっきなバイソンは再会を果たす。
バイソンがいない間の森での出来事をお話しする。
不在の時を埋めるように。
バイソンは真っ黒な優しい目をしている。
女の子はバイソンの全てを目に焼き付けているのかもしれない。
次に来るバイソンの不在に備えて。
そうして、女の子とバイソンは、何年も何年も同じように冬を迎え
共に変わらぬ時を過ごし歳を重ねる。
永遠に繰り返されるかのように。
消炭色を基調に色数を絞って描かれた絵は
冬の冴えた冷たい空気の中、
バイソンの温もりや心の通う時のあたたかさを感じさせる。
女の子とバイソンに必要なものは多くないのだろう。
寄り添う女の子とバイソンの背景は白く何も無い。
何も要らない。
この研ぎ澄まされた鋭い感性と繊細で豊かな表現力の持ち主は
1980年ベルギー生まれのガヤ・ヴィズニウスキ氏。
驚くことに、ヨーロッパの絵本賞を4賞受賞した本作が絵本デビュー作であるという。
そして、訳者の清岡秀哉氏も本書が初の翻訳書だという。
しかも、ブックデザインも同氏が手がけられているのだと。
最小限の人数でひそやかに作られた絵本なのだろうか。
誰にも言わずに秘密にしておこうかという気にもなってしまう。
これは、ちっちゃな女の子とおっきなバイソンの愛の物語。
大切な存在があるということは幸せには違いない。
けれども、存在が大きければ大きいほど不在のさみしさも大きい。
それなら最初から、大切な存在はいない方がいいのだろうか。
そうではないと思いたい。
最初の不在の時とは違い、静謐で慈愛に満ちた年月を積み重ねている。
溢れんばかりの幸せが不在を埋め尽くすだろう。
満天の星が告げている。永遠の始まりを。
Book 『わたしのバイソン』
10.5.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
おまく
「おまく」とは不思議な言葉。
検索してみると京都弁で枕のことを「おまく」という人もいるらしい。
言うかなぁ? 言うかもしれません。
そういうと、かぼちゃのことを「おかぼ」と言いますね。
お豆腐のことを縮めて「おとふ」、お醤油は「おしょゆ」
「おいど」はお尻のことですが、最近は聞かなくなってきました。
そんな感じで、『おまく』というタイトルを見たとき、
何とは無しに、意識しないくらいに日常的な
身近なものをさす言葉のように思いました。
『おまく』(汐文社)は、柳田国男『遠野物語』を原作とし、
京極夏彦による語りと気鋭の絵本作家たちの絵で現代に蘇らせた
えほん遠野物語シリーズのうちの一冊です。
『遠野物語』とは柳田国男が岩手県の遠野出身の佐々木喜善から
聞き書きした話をまとめ、1910年に自費出版したものです。
最初の出版から110年以上経っていますので、現在からすると昔の話ですが、
『遠野物語』の序文に「この書は現在の事実なり」と書いてある通り、
当時の佐々木喜善が、「つい最近」見聞きした本当にあったお話。
もちろん、「ざしきわらし」も「かっぱ」もです。
前置きが長くなりましたが、
『おまく』の絵を担当されたのは、羽尻利門さん。
澄み渡る青空が印象的なのどかな風景の中、
細部まで描き込まれた川辺の草花の現実感とは裏腹に
人の背丈くらいのところで宙に浮かぶ男性。
シュルレアリスムの絵画のようです。
おそれる様子もなく、宙に浮かぶ男性を見送る少女たちは、
「おまくだね」「どこのおじちゃんだろうね」
とでも話しているのでしょうか。
「おまく」とは何でしょう?
「前兆」というか「虫のしらせ」というのでしょうか。
ああ、そうか。
「おまく」は扉ではなく幕なのかもしれない。
じっと見ていると吸い込まれそうな青い空の向こうは
110年前の遠野につながっているのかもしれない。
夕暮れの空を朱く染める日が山の向こうに沈む時、
川の水面が鏡のように辺り一面を映す時、
風に揺らいで彼岸と此岸の通じる幕が開く。
時空をこえて魂が往来する。
遠野のあたりでいうおまくとは、そうしたものである。
Book 『おまく』
9.5.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ぼくは川のように話す
「流暢に話す」という言葉がある。
流暢とは、言葉が滑らかに出て澱みがないこととある。
イメージするのは、アナウンサーのように的確な言葉が
すらすらと流れる水のように…
流れる水?
どこをどう、流れていくのだろう?
「ぼく」はうまく言えない音がある。
言葉が口の中でからまり、つかえ、うまく出てこない。
なのに、隠しきれないびくびくした心は溢れ出る。
特にうまく言葉が出ない日は、お父さんが川へ連れて行ってくれた。
お父さんは川を見ながら「お前の話し方だ」と言う。
川は、泡だって、波うって、渦を巻き、砕ける。
「ぼく」と同じように、一定ではなく。
『ぼくは川のように話す』は、著者である
ジョーダン・スコット自身がモデルになっており、
発音しづらい言葉がある様子が丁寧に描写されている。
教室での居た堪れなさから、父親との会話により
心が解放され、自分を受け入れられる展開に思わず涙ぐむ。
その心情を見事に絵で表現するのはシドニー・スミス。
『うみべのまちで』や『おはなをあげる』『このまちのどこかに』も
主役ではない、どこかの誰かにも思いがいたる、
静かで、忘れられていないという気持ちになる作品だ。
中でも『ぼくは川のように話す』の表現は際立っている。
光輝く絵の中の「ぼく」は自然の一部に見え、
教室の中での「普通」を飛び越え、大自然と一体化している。
教室の外では吃音も川と同じように自然だ。
人と同じでないところがあるのも自然。
Book 『ぼくは川のように話す』
8.2.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
よるがやってくる
大きなクマのぬいぐるみを抱え、眠そうな目をして、
もう、お休みの時間かな?
真一文字に結んだ口に緊張感と決意がにじみ出ています。
今日から、ひとりで寝るんだ。
だけど、「よる」がやってくるんです。
夜になるではなくてね。さわれないし匂いもないけど、
子どもはヒタヒタと近づいてくる「よる」の気配を感じてるんですね。
壁の影が動き出しそう。壁紙の模様も何かに見えてきそう。
子ども部屋のドアを閉めた途端、
お父さんとお母さんがぐーっと遠くに感じる。
電気を消した瞬間の真っ暗で何も見えない宇宙に放り出された感覚。
スタンドをつけると灯りがつくる影、いよいよ、「よる」がやってきた。
ひとりになると、やっぱり、こわい!
そんな心情が、リアルに描かれています。
怖いときって、実は、ものすごく想像力が働くんですよね。
いろいろなものを作り出してしまう。
絵本の面白いところは、物語に自分を投影すると同時に、
客観的に見ることができます。
子どもたちは、「ぼく」と一緒に「こわい」を共感しつつ、
でも、ちょっとカッコいいな。ちょっと面白いな。
お化けみたいなのも、怖いけどかわいいな。会ってみたいかも。
そんな、怖さと親しみやすさのさじ加減が抜群にいい。
今日はひとりで寝てみようかな。
そんな気持ちになる子もいるのではないでしょうか。
今日じゃなければ、あしたでもいいし、ずっと後でもいい。
ゆっくり成長して、いつのまにか大人になっているのでしょう。
「怖い」を知ってるから、より大きな安心、より深い安眠を得られます。
「怖い」のほとんどは気のせいですからね。
でも、本当に全部が気のせいかな?
Book 『よるがやってくる』
7.2.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ハルにははねがはえてるから
あり得ないけど、妙にリアル。
明け方の夢を見た後ような不思議な読後感。
『ハルにははねがはえてるから』は、
水しぶきみたいにキラキラして掴みどころがなくて
ガラスの破片みたいにキラキラして危険。
小説家の大前粟生さんの感覚的な言葉が
漫画家の宮崎夏次系さんというプリズムを通って出来る
虹を見ているような絵本だと思った。
確かに視えているのに、触れることのない。
触れないけど感じられる。
ハルとナツとアキとフユ。
年齢は、中学生くらいだろうか。
子どもというには複雑で、大人というほど定まらない。
4人の少女たちの内に秘めた感覚の鋭さや痛々しいほどの優しさが眩しい。
ハルには、空を飛べるほどの高いポテンシャルがあったのかもしれない。
だけど、仲良しの友だちに寂しい思いをさせるくらいなら飛ばない。
ナツには、人の気持ちを見通す鋭い観察眼があったのかもしれない。
だけど、わかり過ぎることは、人を居心地悪くさせたのかもしれない。
何より大切な友だちのためなら羽も仕舞うし、目も閉じる。
飛べなくても見えなくても、友だちが離れてしまうよりずっといい。
未熟さゆえに自分を抑えたり、傷つけあって、痛くて泣いても離れない。
嫉妬や羨望、依存、執着、名前の付けられない様々な気持ちが見え隠れする。
綱渡りみたいな微妙なバランスを保ちながら、刹那的に過ぎる日々。
シーソーのように均衡を保ち、一方が降りるなんてことは出来ない関係。
しんどくない? 無理してない?
そんな友だちなら、一緒にいない方がいいんじゃないの?
現実に目の前に居たら、そう、言いたくなるかもしれない。
傷つけたり傷つけられたりしながら、
それでも「友だちが大切」が上回る。誰よりも信じられるのは友だち。
理屈抜きの「友だちが大切」が、ありのままに描かれる。
ぶつかり合う個性は次第に加減を知り、理解と共感を生む。
出会えたことが奇跡だし、みんな揃うと最強。
かっこいいし、きれいだし、きらきら。
Book 『ハルにははねがはえてるから』
6.2.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
音楽をお月さまに
ハリエットの奏でるチェロを聴くと両親は
オーケストラで演奏する将来の娘の姿を思い浮かべます。
どんな演奏なんだろう?
正確で丁寧で、控えめで品の良い音色ではないかな。
だけど、ハリエットは自分ひとりでチェロを弾くのが好きなのです。
人前で演奏するなんてまっぴらなんです。
でも、「私、オーケストラに入りたいんじゃない」って
はっきりとは言ってないと思う。
ある時、「将来は、オーケストラの演奏家になれるね」って言われて、
つい、「そうかな?」なんて調子を合わせてしまって
嬉しそうな両親を顔を見てたら、「そんなのまっぴら」って言いそびれて、
きっと、そのままなんじゃないかな。
今になって「オーケストラに入りたくない」なんて言ったら、
両親はきっと、悲しい顔をする。
そんなことは望んでない。
称賛されたいわけじゃない。ただ、ずっと好きでいたいだけ。
それって、変かな?
みんなと一緒がイヤなわけじゃない。
ただ、誰にも合わせる必要なく自由に好きなことをしたいだけ。
それって、わがままかな?
傷つけたいわけじゃないの。ただ、ひとりが好きなだけ。
それって、さみしいかな?
ハリエットは、ひとりになりたかっただけなのに、
フクロウを傷つけてしまったり、お月さまを驚かせてしまいます。
ハリエットはいい子なのだと思う。
とても愛されて、大事にされてきた子なのだと思う。
だけど、少しばかり重荷に受け止めていたのかもしれない。
受けるばかりで、与え方を知らなかったのかもしれない。
誰かを傷つけることが、怖かったのかもしれない。
お月さまと出会い、ハリエットの心に少し変化が訪れます。
お月さまはそこにいるだけで、誰かの思い出を飾り、誰かを助けます。
そんなお月さまが、ハリエットのチェロを聴きたいと。
ハリエットのチェロはどんな音を奏でるのだろう?
静かで穏やかでやわらかくやさしい音色ではないかな。
きっと、月の光のように。
Book 『音楽をお月さまに』
Book 『ハルにははねがはえてるから』
5.2.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
すてきなひとりぼっち
冒頭で心をわしづかみにされてしまった。
絵の上手な一平くんは、絵を描いて見せてと教室でみんなに囲まれて
でも、子どもの関心は、すぐにあっちこっちに散らばって、
絵が描けた頃には、ひとりぼっち。
でも、一平くん、こんなひとりぼっちは、なれてるって言う。
雨の日に転んで、傘がこわれちゃったときも、
誰にも気づかれずに置いていかれて、ひとりぼっち。
そんなひとりぼっちも、なれてるって言う。
なれてるっていうのは、よくあることっていう意味で平気ってことじゃない。
平気を装うのは、少しばかり上手かもしれないけど
忘れてしまえるほどじゃない。
また、ひとりぼっち。
気づかないってことは、誰かをさみしくさせてることにも気づかない。
一平くんだって、気づかないうちに誰かを不快にさせてしまうこともある。
もし、相手の目を見て話してたら、気づいたかもしれない。
だけど、ちょっとした困りごとに手を差しのべたら、
目と目を合わせて会話を始めたら、
もう、ひとりぼっちじゃない。
ほんの少し、相手のことを気にかけるだけで。
本当はみんな、ひとりぼっち。基本はひとりぼっち。
ひとりぼっちも悪くないです。
誰もいないってことは、ひとりじめ出来るってことですから。
夜明けの空も、静けさも。
Book 『すてきなひとりぼっち』
4.1.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
地球のことをおしえてあげる
地球に寝そべって、男の子が長い長い手紙を書いています。
金色がふんだんに用いられた美しい表紙カバーです。
カバーを外した本体表紙がまた素敵です。
見たこともない宇宙の友だち、どんな姿をしてるのでしょうか?
広い宇宙のどこかにいる会ったことのない友だちに
地球のことをおしえてあげると、男の子は手紙を書きます。
地球は大きな太陽の近くにあって、すぐそばには月があるよ。
緑と青に見える星なんだよと。
どんなところに、どんな人々が住んでいて、どんな暮らしをしているかとか、
何もないように見える海にも様々な生き物がいること。
人と人は争いもするけど協力もできる。
老いるけど助け合える。
私たち地球人はこんな風ですよ。
君たちは?
いつ、地球にきてくれる?
そんな、長い長い手紙を書いています。
作者のあとがきによると、この本のアイデアがうまれたのはブータンのヒマラヤ山脈の頂上だそうです。
非営利の国際組織セーブ・ザ・チルドレンの活動で、10人の子どもたちと一緒にいた時、世界中の子どもたちの心がひとつになるお話を作りたいと考えます。
ルワンダやコンゴ民主共和国、インドやシンガポール、ニューヨークにいる時も同じことを考えました。
そうして世界中の子どもたちと話したのちに、アイデアを物語にするのにも子どもたちの手助けがありました。
例えば、「宇宙から来た誰かにおやつをあげるとしたらなにがいい?」
まだ見ぬ相手を想像する子どもたちの答えは思いやりにあふれています。
歯があるかどうかもわかりませんからね。
そして、地球のことを説明することは、とても難しいです。
顔も暮らし方も考え方も、みんなそれぞれに違い、一人として同じ人間はいません。
これが典型的だという地球の人間を表す人は一人もいません。
けれども、みんな地球に生まれて暮らしているという点では同じ。
宇宙の誰かに地球を説明することを想像してみましょうか。
ちょっと、良いように言いたいなぁなんてことを思ってしまいますよね。
地球上のみんなが、ちょっと良いように言いたいなぁって考えたら、世界は少し、良くなるんじゃないかなぁ。
Book 『地球のことをおしえてあげる』
3.1.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ポッコとたいこ
ポッコという女の子のカエルがいました。
お父さんとお母さんと一緒に、静かな森のきのこの家に暮らしています。
お父さんとお母さんは、ポッコに太鼓をあげたのは間違いだったと考えています。
お父さんは静かに暮らしたいのです。
ポッコがうるさくするので、お父さんは外へ出るように言いました。
でも、あまりうるさくするな。
お父さんは目立ちたくないのです。
ところが、外で太鼓をたたくポッコに、ひとり、またひとりと仲間が増えて…
カナダのイラストレーターで漫画家のマシュー・フォーサイスの暖色ベースの絵は色合いも美しく、コミカルな展開も楽しい作品です。
ポッコたち一家のご飯を作ったりポッコに話して聞かせるのはお父さん。
お母さんは本を読んでばかり。
でも、お父さんよりはポッコに理解があるようです。
文中、「女の子のポッコに」とあえて書かれているところからも、ジェンダーの視点から読むことを誘われます。
ポッコは才能豊かな女の子なのでしょうね。
何を与えても、両親の予想の斜め上をいく使いこなし方をします。
ですが、お父さんは間違いだったといいます。
目立ちたくないのです。
ポッコが男の子だったら、どう思ったでしょうか。
ポッコは家を出て、静かで美しい森でひとりで太鼓をたたいてる時、「しずかすぎる」と、思います。
もしかしたら、ポッコと同じように楽しく暮らしたい動物は他にもいるけれど、目立つことを嫌う家族に静かにしていることを要求されているのかもしれません。
途中、仲間に加わったおおかみが同じ仲間のうさぎを食べてしまいます。
ポッコは毅然とした態度でおおかみを叱りつけ、おおかみは心から反省します。
ポッコも小さいけれど、おおかみを恐れて逃げ出したりしません。
ポッコはリーダーとしての資質も十分に備えているようです。
大勢の動物たちがポッコについていきます。
音楽の音はどんどん大きくなり、やがてポッコのお父さんとお母さんも巻き込みました。
お父さんは、驚いて「やめてくれ!」といいますが、先頭のポッコを見て、お母さんに言います。
「すごく いいんじゃないか、あの子!」
森が静かだからといって何も問題がないとは限らないのです。
本当に心が求めていることに気づかないようにさせられているのかもしれません。
気づかせる存在は、うるさいと感じるかもしれません。
Book 『ポッコとたいこ』
2.1.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
追悼 安野光雅さん
画家で絵本作家の安野光雅さんがお亡くなりになりました。
安野さんの代表作をあげれば枚挙にいとまがありませんが、私にとって特別な絵本は、1968年に福音館書店のこどものともから発行され、半世紀以上にわたって愛されつづけているロングセラーの『ふしぎなえ』です。
その絵本をはじめてみたのは、実家近くのお寺でした。
昔からの田舎の町には児童公園もなく、お寺が地域の子たちの遊び場になってました。
お寺にはピアノもあり、週に1、2度、先生がやってきてピアノ教室がありました。
私はピアノは別のところで習っていたので、友だちがレッスンしている間、ひとりで大人しく小さな本棚の本を手にとって読みふけってました。
『お釈迦さまの誕生』とか、そういう本の中にまじって、『ふしぎなえ』があったのです。
『ふしぎなえ』では、とんがり帽子のたくさんの小人たち……小人かどうか分かりませんね。
決めつけちゃいけません。
とんがり帽子の人々が天井にぶら下がって……ないですね、絵本を逆さにすると、ちゃんと立ってます。
歩道橋のような階段を上ったり、上ったり、延々上らないといけないですね。
疲れ果ててる人もいます。小さいのか大きいのか、上なのか下なのか、はたまたどこにつながってるのか、見たこともない不思議な絵。
外国の雰囲気の漂うふしぎな絵の世界に夢中になって、いつまでも眺めていました。
お寺の御堂の高い天井や仏様の掌の上に、とんがり帽子が隠れてるんじゃないかと、息をひそめて、あちこち探してみたりもしました。
絵本って、おもしろい! わたし、絵本が好きだ。
と、自覚した最初の絵本が『ふしぎなえ』です。
中学生になって、もう小さい子たちのようにお寺で遊ばなくなり、どうしても手元に置いておきたくて、お小遣いで最初に買った絵本も『ふしぎなえ』でした。
絵本のこたちは古い民家を改装したのですけど、靴を脱いで上がるようになってます。
お寺で畳の床に『ふしぎなえ』を広げて見いってた覚えがあるので、そうしました。
『ふしぎなえ』は、絵本のこたちの原点です。
物事をいろんな方向から見てみること、見えない側を想像すること、見えてるものが思い込みでないか疑ってみること、ああでもない、こうでもないと考えてみること。
そういうのが楽しい!
と思えるのが『ふしぎなえ』です。
ニュースで訃報を知った時、絵本のこたちでは安野光雅挿画展を開催中でした。
ギャラリーの壁にかけた安野さんの絵に囲まれながら、悲しいけれど安野さんという作家のおかげで、この世界はずいぶんステキになったよな、と思いました。
1.3.2021
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
メアリ・ポピンズ
ロンドンの桜通りのバンクス家に東風にのってやってきたメアリ・ポピンズは、
階段の手すりの上を、しとやかに滑り登るという軽業をやってのけます。
これでもう、バンクス家の四人の子どもたち、上のふたりのジェインとマイケルの心を鷲掴みにするのですね。
しとやかに、ってところが大事です。
メアリ・ポピンズは分別をわきまえた大人ですから。
就業にあたっての条件も、バンクス夫人にきちっと交渉して自分の希望を叶えます。
雇われる身だからといって、へりくだった様子は全くなく、自分の方が世の中をよく知ってるという風に毅然とした態度はあっぱれ。
メアリ・ポピンズって、こんなに大人だったっけ?
魔法が使えて、気ままでお洒落で、子どもみたいな人じゃなかったっけ?
『メアリ・ポピンズ』は愉快で楽しいお話ですけども、子どもが大人になるにつれ、失っていく想像力や、常識にとらわれていく寂しさを描いたお話でもあります。
バンクス家の下のふたり、双子の赤ちゃんのジョンとバーバラは、日の光やムクドリとお喋りが出来ます。人間の大人には解らない言葉で。
けれど、他の人同様、そのうちムクドリの言葉がわからなくなります。
ジョンとバーバラは忘れてしまったことにも気づかず、ああ、その時が来たんだ、と解るのはムクドリの方。
メアリは「泣いてんの?」とムクドリを冷やかします。
こんなことは当たり前で、何百回と見てきたという風に。
メアリ・ポピンズが特別なのは、子どもの心を残したまま、大人の分別を身につけた稀有な人なんですね。
常識にとらわれない人は、メアリの他にも、自分の描いた絵の中に入れるバートや笑いガスで宙に浮かぶウィッグおじさん、夜空に星を貼り付けるコリーおばさんがいます。
メアリはそれぞれの人に対して、思いやりと礼儀を尽くして付き合います。
大人であるということは、自己主張が出来るだけでもないし常識的であることでもない。
バンクス家の子どもたちに対しては、子守りとしての厳格な態度を崩しません。
気難しく、何でも知ってるのに簡単には教えてくれないメアリは、マイケルが理由もなく悪い子だった火曜日には、マイケルを問い詰めることもせず、逆に理由もなく悪い日もという態度で、さらには不思議な磁石で世界の広さを見せます。
自分が小さな子どもだということを思い知ったマイケルは、メアリのそばで安心して、ゆっくりと時間をかけてミルクを飲み、温かいベッドの中で生まれてきてよかったと心の底から思います。
そんなマイケルを前にして、メアリは感傷に浸るでもなく、子どもが幸せなのは、さも当然という態度で夕食の後片付けをするのです。
『メアリ・ポピンズ』は、子どもにとっては愉快なお伽話。
大人にとっては、大人になるってどういうことだろう? と考えさせられるお話です。
子どもに接する時「子どもの目線に立って」とはよく言われることですが、子どもに合わせるということではないと思います。
メアリ・ポピンズは、子どもの見えている世界を理解しつつ、世界への扉を開かせることの出来る人。
自分という大人と出会うことで成長を促すことが出来る人。
ロールモデルにしたい人です。
Book 『メアリ・ポピンズ』
12.1.2020
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
おばけのいる家
うちの実家におばけがいるんです。
雨戸がガタガタいったり、柱がミシミシ音を立てたり、天井裏で小さい足音をたてたり、何か棲んでましたね。
あれは、おばけです。
その証拠に正体を現したことがありません。
いるのは構わないんですけど、テレビのリモコンを隠したり、目覚まし時計を勝手に止めたりするのはやめてほしいですね。
もし、姿かたちがあるとしたら、白くて丸くてふわふわ浮かんでますね。
人見知りがはげしくて、少し怖がりで、思い悩むタイプかも。
話してくれたら、喜んで相談にのるんですけど、打ち解けられないまま、実家を離れて20年が経ってしまいました。
しおたにまみこさんの『やねうらべやのおばけ』に登場するおばけは、古い家の屋根裏部屋に、もう長いこと一人で気ままに暮らしています。
誰かがきた時はガラスみたいに透明になって、眠る時はマッチ箱に入れるくらい小さくなります。
だから、誰もおばけのいることに気がつかないんです。
ところが、あるときから、この家の女の子が屋根裏部屋に毎日やってくるようになり、おばけは面白くありません。
自分だけの場所を取られたような気がしたのです。
だけど、女の子が屋根裏部屋で探していたのは、実は・・・
ひとりが気楽でいいや、目立ちたくないし誰にも気づかれないていい、と口では言っておきながら、気づいてもらえると案外、うれしかったりする。
そういうことって、ありますよね。
普段、十分に人と接していると思ってても業務連絡以外してなかったり、家族と会話してるつもりでも小言しか言ってなかったり。
自分の思いどおりに行動させようと頑張っても上手くいかなくて、ポロリとこぼした本音がスルリと伝わる。
伝えるって、狙うとなかなか難しいものがありますね。
それは、大人も子どももあんまり変わらないんじゃないかなぁ、と思います。
しおたにさんの黒を基調に粒子の集合で描かれたような独特の表現は、木炭鉛筆で丹念に描き込まれた不思議な世界。
ざらりとした画面の中にシャープなラインやツルリとしたガラス質のおばけが、なんともミステリアス。
一枚描くのに1〜2ヶ月かかることもあるという緻密な作業。
その原画を間近で見たいと、11月27日から12月15日まで、絵本のこたちギャラリーで原画展を開催中です。
ぜひ、ご覧ください。
※ご来場の際は、新型コロナ感染予防にご協力ください。
Book 『やねうらべやのおばけ』
11.1.2020
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
イワンの馬鹿
『イワンの馬鹿』です。
決して「イワンは馬鹿」ではないのです。
馬鹿という言葉は、知恵の足りないことを侮蔑して使うこともありますが、バカ正直やバカでかい、釣りバカ日誌、あと、天才バカボンとかですね。
真っ直ぐで器の大きい様子や、他が見えなくなるくらいに夢中になったり、「馬鹿と天才は紙一重」ともいうように、常人には真似できない規格外の人や行動を指しても使います。
さて、『イワンの馬鹿』です。
子どもの頃は、イワンのどこが馬鹿なんだろう?
なんてことを思ってましたが、正直を貫くって並大抵のことじゃありません。
そんなことを実感するイヤな大人になってしまいました。
軍人の長兄、商人の次兄はそれぞれの国を治めますが、小悪魔に唆され全てを失っては実家に戻ってきます。
いわゆるデキる兄たちと違って欲のないイワンは、兄たちの言う通りに財産も放棄するし、老いた両親の面倒をみながら手にタコを作って農業に勤しみます。
あまりにも無欲なために悪魔のささやきもどこ吹く風。
逆に小悪魔の仕掛けを幸運に変え、一国の王になったイワンは軍事力でも経済力でもなく、自らがそうしてきたように持続可能な自給自足の国を作ります。
イワンと暮らす末の妹は耳が聞こえず上手く話せないけれど、誰が働き者でそうでないかを見分ける術を持っています。
ああ、いいですね、そういうの。
上手く立ち回ったり、小狡く人を丸め込んだり、楽をして搾り取ったり、そんなことが「デキるヤツ」と評価され出世していく組織もありますが、そんな世知辛い世の中で、イワンの馬鹿っぷりのなんと清々しいこと。
まさに、今の時代に読み返したいお話です。
レフ・トルストイ(1828年8月28日−1910年11月20日)は、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』といった大作や、非暴力主義者としても知られます。
『イワンの馬鹿』はトルストイの理想の生き方が描かれているのでしょう。
アノニマ・スタジオ出版の小宮由さんの新訳『イワンの馬鹿』は、リズミカルでとても読みやすく、親子で楽しみながらトルストイの真髄に触れることの出来る本です。
滑らかなタッチの線画の挿絵はハンス・フィッシャー。
『こねこのぴっち』(岩波書店)や『ブレーメンのおんがくたい』(福音館書店)でもお馴染みです。
少し古風で大人っぽい装丁で小学校高学年から中学生くらいのお子様への贈り物にいかがでしょうか。
きっと、言わんとすることは伝わると思います。
願わくば、イワンほどではなくても普通に、正直に生きてたら馬鹿を見ない世の中になってほしいですね。
Book 『イワンの馬鹿』
10.3.2020
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ギリシャのブルース『レベティコ』
ギリシャ壺のような赤土色を背景に描かれる、表紙の男スタヴロス。
自ら額にグラスをぶつけて血を流す激しさ。
音楽より血の方がいいってんなら… オレを殺せ! 今すぐに!!!
さもなきゃオレたちに演奏させろ
彼はレベテース。
1920年代のギリシャに生まれた大衆音楽「レベティコ」を演奏するミュージシャンだ。
物語の舞台は、1936年10月のアテネ。
半年の服役を終え出所するレベテースのリーダー格マルコスをスタヴロスはじめ仲間たちが迎えにいくところから始まる。
当時のギリシャは、第一次世界大戦や希土戦争の結果、数世代にわたりトルコ住んでいたギリシャ正教徒がギリシャに送還され、その数は150万人にものぼる。
彼らは悲惨な生活を強いられ、都市の門前に出来たスラム街には、その日暮らしをする人々で溢れていた。
その中に含まれていた音楽家たちにより、トルコ音楽がギリシャに持ち込まれて誕生したのが「レベティコ」だ。
ギリシャとトルコの関係は長く複雑で、それぞれのルーツは混じり合っている。
レベテースは西洋と東洋が混じり合う象徴的な存在であり、そのことで目の敵にもされた。
1936年に政権を握ったメタクサス将軍は独裁体制をとり、言論も規制した。
東洋的なるものを排除し、人々の頽廃を招いた原因にレベテースを槍玉にあげ、取締りを強化する。
確かに、スラム街に暮らす人々は先の見えなさに苛立ち、無気力で暴力や麻薬に溺れる日々を過ごす。
気怠く卑猥で野蛮なレベテースの奏でる音楽は、社会から見放された哀切を歌い、投げやりな気持ちを吐き出し、やりきれない思いを抱える人々を結びつける。
ことわっておくと、本書には下品な表現もある。
けれど、痺れるほどカッコいいのは、第二次世界大戦を目前に控え、不穏な自由に歌うことさえ疎まれる窮屈な空気のなか、レベティコが人生の真実、だれの言いなりにもならない魂の自由を歌っているからではないだろうか。
『レベティコ-雑草の歌』は、大人のためのバンド・デシネだ。
バンド・デシネとは、フランス語圏のマンガのことでグラフィックノベルともよばれる。
多くは大判のハードカバーで出版されており、絵本とマンガの中間のような体裁をとっているが、絵本では物足りないYA以上の大人にも読み応えのあるストーリーと絵に力があり注目のジャンルだ。
作者のダヴィッド・プリュドム(David Prudhomme)は、1969年フランス生まれ。
レベティコの虜になったというダヴィッド・プリュドムの絵が素晴らしい。
身体を揺らしながら踊る姿からはリズムが聴こえそうだし、音楽と音楽の生まれた背景や精神が生み出す世界を演出しているのは、陰影の表現だろう。
全編にわたる光と影の繊細な表現に目を見張る。
室内の仄暗さ、屋外の陽光を表現する陰と影。木蔭が作る模様まだら模様。
次第に暮れて夕陽に染まる赤。夜の闇。
夜の酒場の暗さが昼間のハシシ窟の暗さとまた違うのだ。
乱痴気騒ぎを経て小舟を漕ぎ出し海の上で迎える夜明け。
太陽は何事もなかったかのように世界を明るく照らし濃い影を落とす。
だけど、何事もなかったわけではない。
とどまるもの、抜け出すもの、流されるもの。
それぞれの選択がある。
魂は自由だ。
Book 『レベティコ-雑草の歌』
著:ダヴィッド・プリュドム
訳:原 正人
サウザンブックス社
発行:2020年10月
9.4.2020
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
長田真作の世界
長田真作さんの最新刊『ほんとうの星』『そらごとの月』が、303BOOKSから、2冊同時発売になりました。
赤と黒で描かれた『ほんとうの星』と、『そらごとの月』は青と黒の不思議な世界。
ぽっかり開いた表紙の穴は、いびつで、何かを象ってそうな、案外、何でもなさそうな、何か引っかかる形をしています。
『ほんとうの星』の星は、自分がほんとうに星なのか自信がなさそうです。
他の星たちに「ねぇ、君たちは星だよね?」って聞いてみると「あたりまえでしょ」って、そんなこと疑問に思ったこともないみたい。
僕は星だよね? ほんとうに星? 星って何だろう?
ほんとうって何だろう? 探しているのは、何だろう?
もしかしたら、誰でも感じたことがあるかもしれない。
居心地の悪さや生きづらさ。
自分には、もっと別な場所があるんじゃないかとか、このままでいいのか、とか。
もしかしたら、そんなこと考える必要はないのかもしれない。
『そらごとの月』の月は、ねむれない。
もう、ずっと、ねむれず起きてるしかない。
夜はいつまでも終わらず、夜のすきまから見える、闇にうごめく奇妙な生き物たち。
夜はしつこくまとわりついて、月を決して離さない。
いっそ、夜に身を投げようか。
夢に食べられてしまえ!
夜の闇の中にいたのか、自分の中の闇に囚われているのか。
長田真作さんは、2冊同時や3部作といった形で出版されることが多く、対になったり連作で物語がすすむ。
相反する世界や矛盾が内包されていて、一つひとつの要素が複雑に絡みあってはいるけど、溶けて混ざっているような気はしない。
混沌としたなかにも、キラリと光る何かがありそうな、そんな何かを見つけたいという気持ちになる。
ふと、ニーチェのあの格言が浮かぶ。
怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。
深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ。
Book 『そらごとの月』
Book 『ほんとうの星』
8.2.2020
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
ぼくといっしょに
京都も市内の中心部は人が増えているようです。
当店は観光地から離れてますので、あまり変わりはありませんけども。
準備不足が否めないまま始まったGo to トラベル。
どこかへ行ってしまいたいけど、どこへ行ったらいいものやら。
そんな時、空想が助けになりますね。
『ぼくといっしょに』は、とても気持ちのいい絵本。
空から見た街の様子から始まります。
飛ぶ鳥の目線から見た景色を鳥瞰図と言いますけど、今の感覚ならドローン瞰図といった方がしっくりくるでしょうか。
おつかいをたのまれた「ぼく」。
どうする? 道はけわしいぞ。
途中の森にはドラゴンもでるし、ゴツゴツの岩山をこえた先には大海原。
海賊におそわれることもあるからね。
やおやさんにりんごを買いに行くには過酷すぎやしませんか。
タネを明かすと、広い庭の木々が森に池が海になんですが、子どもの豊かな想像力で、どんな場所だって大冒険。
息を呑むほど美しいデマトーンの絵は、見るたびに発見があります。
作者のシャルロット・デマトーンはオランダの絵本作家。
オランダは、子どもの幸福度が世界一といわれています。
学校では好きな教科から学ぶことができ、ワークライフバランスが浸透しているので、家で家族と過ごす時間が長いそうです。
この絵本に描かれる町の家々の庭からも、それぞれに暮らしを楽しんでる様子が垣間見えます。
子どもが幸せを感じながら、自由に空想の翼をはためかせ冒険に出かける。
そんな国があるなんて、おとぎ話みたい。
Book 『ぼくといっしょに』
シャルロット・デマトーン|作
野坂悦子|訳
ブロンズ新社
7.1.2020
DAYS / Satoko Kumagai Column
本トのこと
バウルを探して
バウルって、ご存知でしょうか。
バングラデシュの農村部に暮らすか、村から村へと移動する吟遊詩人、どのカーストにも属さない人々。
そのワードだけで神秘的過ぎるし、吟遊詩人てスナフキンしか思い浮かばないんですけど、ユネスコの無形文化遺産にもされているらしく、ということは、実在するんですね。
『バウルを探して』は、まさにバウルを探す旅のノンフィクションです。
旅人の川内有緒さんは、当時、国連を退職したばかりという経歴も面白い。
バウルって何だろう? どこに行ったら会えるんだろう?
下調べからガイド探し、詳しく知ってそうな人探しから、この旅は何かある。
出発前から何か不思議な力に導かれてるとしか思えないのです。
既に幻冬舎から2013年に出版され、翌年、新田次郎文学賞を受賞されていますが、今回の三輪舎刊『バウルを探して 完全版』は、装丁も工夫がたっぷり。
その全てが過不足なく、例えば、背表紙がついてないから剥き出しの丁合は織物の模様のよう。
虹色の綴じ糸も美しいのですが、それだけでなく、パカッと開きが良いので見開きの写真もストレスなく見られます。
なぜだろう?
今日、届いたばかりなのに、既に何年もそばに置いてる本のように手に馴染むのは、さすが、矢萩多聞さん。
もうひとつ、大きく違うのは、旅の同行者で写真家の中川彰さんの写真がふんだんに収録されていること。
既に文章を読まれてる方には、ああ、あの場面とすぐ分かる写真がたくさんで、一度見てしまうと写真抜きには考えられない、なるほど<完全版>としか言い表せません。
実は、写真家の中川彰さんとは一度だけお仕事をご一緒したことがあって、もう20年以上前なんですが、出版社に勤めてた頃、ある美術家のインタビューに同行していただきました。
会社の人はみんな、アキラさんって呼んでました。
インタビュー中にも手持ちのカメラで撮影されてたんですが、終了後にポートレートも、とケースから取り出されたのは木製フレームの8×10だったかな? 大きなカメラがとても美しくて、美術家さんも私も、しばし、じーっと見入ってました。
時間があったので珈琲を飲んでから帰ろうかと立ち寄った喫茶店で、さっきのカメラの話をふってみました。
木製フレームのきれいなカメラですね。
やっぱり、仕事道具にはこだわりがあるんですか?
「カメラ向けられるのって、怖いやん? ボクもこんな風貌やしな。ちょっとでも、和らいだらいいなと思て」
ああ、そういう風に対象を向き合う人なんだな、相手を構えさせないように。
写真家は見る方で被写体は見られる方、という一方的な関係ではなくて対等に、というようなことを、何だかいろんな言葉で話されてたのをぼんやり聞いてました。
ちゃんと聞いておけばよかった。
言い訳すると、言葉を探す旅に出てしまったな、という感じに置き去りにされたのです。
正確に言い表す言葉、嘘が混らないような言葉を探すアキラさんは、写真も素とか本質とか、表面的じゃないものを見ようとしてるのかなと思いました。
その頃から、アキラさんはバウルを探してたのかもしれない。
アキラさんがバウルなのかもしれない。
「あなたの中に すでにバウルがいるのだよ。こうして私を探しに来たのだから」
Book 『バウルを探して』
川内有緒・文
中川彰・写真
三輪舎 刊