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DAYS

STAY SALTY ...... means column

バルト海をヒールで闊歩して

Maya Column

from  Stockholm / Sweden

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麻耶
ITプログラマー/通訳

米国、中国滞在後、新世紀の幕開けからスウェーデンストックホルム在住。
本業 ITプログラマー、不定期に海外ロケ補助、リサーチ、通訳。
プライベート パンデミック関連のボランティア活動。

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季節外れの転職

9.10.2024

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

季節外れの転職

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「お前、その分野に関する技能も知識はゼロだろ。そんなお前がなんでリクルートされるんだよ、二十歳でもないのに」

 

半年前に、ある企業からリクルートされた時、もと同僚にそう訝られた。

彼は日本人ではないので「お前」と言われたわけではないが、私にはそのように響いた。

くだんの同僚とは、決して仲が良いわけではなかったが、嫌い合っているわけではなく、いまいち波長が合わない、という程度であった。

しかし、さすがに二十歳ではない、という年齢に言及されたことは気に障った。

彼は私よりも多少年下ではあったが、私同様、二十歳ではない。

彼の任務に対する姿勢は真剣ではあったが、新しいテクニックに対しては、他の同僚達と同様、腰が重いタイプであった。

しかし、それは私も同様である。

LINEという人気アプリさえインストールをしていないため、友人達に頻繁に苦情を垂れられる。

「その分野に関しては、まったく経験がありません。でも習う意欲はあります」

面接の時には、私は正直にそう答えた。

履歴書にもその分野の経験があるとは記載していない。

嘘はったりを履歴書に記載して就職の至りになっても、実際に仕事を始めたら即座に暴かれる。

プログラマーの友人はこう宣う。

「同僚がプログラムに向いているか否かは、三か月も一緒に働いていたらすぐにわかるわよ。貴方と一緒に働いたことはないけれど、貴方にはどちらかというとプログラマーよりもプロジェクト・リーダーのような纏め役が向いていると思う。その方が報酬もいいはずだし」

友人の推察した通り、私にはプログラマーよりも適している職があるはずである。

しかし、私が従事したいのはプログラミングなのである。

もと同僚の言及した通り、私にはその分野に関する知識は皆無であった。

リクルータから声が掛るまでは、そのようなIT分野があるという知識にも欠けていた。

私は、若い男性リクルーターに訊ねた。

「教えてください。この分野における経験が皆無の私が、何故リクルートされたのかわかりますか?」

「さあ、僕にも本当の理由はわからないけど、この分野のプロとなると相当の報酬を払わないといけないからじゃないかなあ」

リクルーターのこの推察が正確か否かは不明であるが、納得出来る根拠ではあった。

この分野に関する素人を雇って社内で教育した場合、若い人であれば、教育を受けて熟練者になったらすぐに高給取りのコンサルタントに転身してしまう可能性もある。

そうなると企業としての投資が無駄になる。

逆に、さほど若くない人であれば、数年間は残ってくれる可能性が高い。

雇用される理由など、私には関係はないのかもしれないが、納得出来たほうが、自身の気持ちの整理も出来る。

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以前の勤務先までは、自宅から徒歩十分程度の通勤距離であった。

勤務時間に関してもさほど厳しくもなく、知り合いも多く、気楽な職場であった。

社内にはブッフェ・ランチレストランもあり、年に10回ぐらいは自社ビルにて、アフターワークもあった。

自分の任務さえ遂行していれば比較的居心地のよい職場であったし、業種が金融なので比較的知名度も信用度も高い。

辞表を提出する時には非常に勇気を要した。

五年以上も勤務した会社であるため愛着もあるうえ、上述の利点を全て捨てなければいけない。

勤務している人の中には勤続三十年というような人も少なくない。

それだけ長く勤めている人が多いのであれば、よほど待遇が良いか、居心地が良いのであろう。

往々にして金融関係は待遇が良い。

「転職するって、本気かよ?ここには優遇的な年金制度もあるし、老後も安泰だよ」

 

仲の良かった同僚は驚いてそう訊き返した。

老後?

十年間以上の就学を経て、ようやくフルタイムの職に就いた私は、これからキャリアを積み上げてゆく予定なのだ。

私にとっては老後の生活を考慮することなどまだまだ先のことだ。

「先日、ふだん通ってるヘアーサロンに寄ったらさ、馴染みの理髪師がいなくてさ。どうしたのかと訊ねたら病気で急逝されたっていうんだよな。まだ55歳だったらしい。人生って短いよな。それで俺決めたんだよ、60歳で退職しようって。実は前から漠然とは考えてはいたんだけど、それが決め手となってさあ」

 

その同僚はそう続けた。

私の新しい転職先は、給料に関してはほぼ同等か、あるいは多少下がる。

勤務時間も増え、通勤距離も長くなる。

人間関係に関してはまったく未知であった。

それならば何故、わざわざ転職をすることにしたのか。

一言で纏めれば、最先端の技術を駆使して働きたかったのだ。

過去五年間、毎日毎日、同じ作業を繰り返しているような錯覚を受けていた。

以前の勤務先に関しては、業務内容自体は決して容易なものではなかった。

しかし、難易度の高いアサインメントが回って来ても、ベテランのテクニシャンが即座に担当に付いてしまうため、私のところには比較的簡単な業務しか回って来なかった。

これでは、自分の技能及び知識がまったく上達しないと危惧したのだ。

このまま簡単な業務を続けながら、悶々とした心情で、数十年間、ぬるま湯に浸かってゆくか。

あるいは、多少勤務条件は落ちても新しい分野に挑戦をしてみるべきか。

新開地はいばらの道かもしれない。

この転職が私にとって賭けであると同様、新しい雇用主からしても、この分野の経験がゼロである人材を雇用するするということは賭けなのである。

もっとも雇用主にとっては、この賭けが失敗したら人材を交換すれば良いだけであるが。

果して私はどちらを選択すべきなのか。

そのような岐路に立たされた。

しかし、自分の中では答えは既に出ていた。

冒頭の同僚の言及した通り、私は20歳ではない。

そしてその分野に関する知識も技能もない。

しかし、その私に取りあえず賭けてみようとしてくれる企業がある。

私は新しい雇用先との電子契約書にサインをした。

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なっちゃんと一緒に過ごす北欧の夏

7.1.2024

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

なっちゃんと一緒に過ごす北欧の夏

「私、今年の夏、スウェーデンに行きます」

 メールを開いたら、もと親友から、このような連絡が入っていた。

 読み進めて行くと、「二か月間滞在する」、とある。

 二か月も日本を離れるとは、どういうことだろう、と一瞬考えた。彼女はもしかしたら離婚をしたのでは、それが私の脳裏に浮かんだ危惧であった。

 私がストックホルムに引っ越したばかりの頃、最初に知り合ったのが彼女、なっちゃんであった。

 彼女とは年齢は近かったが、出身地も、価値観もまったく異なる。彼女に言わせれば、私達が日本で知り合っていれば、絶対に友人関係にはなっていなかったはず、であるらしい。

 そんな私達が何故か親友同士になった。

 元来、私には友人が多い。長い人生の中では、親友と呼べる友人も多い。しかし、なっちゃんの場合は、親友というよりは、むしろ家族であった。海外における日本人同士の結束は往々にして強い。

 当時の私たちは、時間にそれほど追われていなかった。電話の通話代金は安価ではなかったが、私たちは毎日、一時間以上話をしていた。とりとめのない話である。それほど事件の多くなかった当時のストックホルムにて、どのような話をしていたのかは、皆目記憶にない。
 

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 この国に移住してから十年間、なっちゃんは、私同様、ストックホルムにて自分の場所を探し続けていた。彼女は、コンピュータのコースに通ってみたり、様々なことにトライはしていたが、レストラン勤務をしていた期間が一番長かった。


 近いうちに、スポンサーを見つけて自分のレストランを持つのではないかと、まわりには期待されていたが、最終的には日本に帰国した。それと同時にスウェーデン人との婚姻生活も終止符を打った。


 あるいは、婚姻生活が破綻したため、日本に帰国をしたのかもしれない。その頃になったら、親友と呼べるほど頻繁に連絡を取っていなかったため、詳細はわかりかねる。レストラン勤務のなっちゃんと勉強三昧の私、私たちは接点を見つけることが次第に難しくなっていたのだ。


「またすぐに遊びに来ます」


 帰国をする間際、彼女はこう言った。そして、その「すぐ」は15年後の今年、ようやく実現した。


 彼女は15年間、一度も海外旅行をしなかったと言う。帰国後の数年間は日本の生活が楽しすぎたため、海外には興味が持てなかったこともその理由の一つであったという。


 その浦島太郎になったなっちゃんが、15年後に再会するスウェーデン。私たちは、共通の友人の別荘へ向かうために、遠距離電車のホームで待ち合わせをした。髪を短くカットしていた彼女を探すのはそれほど容易ではなかった。


 「昨日、カフェで菓子パンを一個買ったんだけど、その値段、想像出来る?」、と開口一番、質問を投げ掛けて来る。 私が、40クローナぐらいか、と答えると、彼女は、その通りだと答える。


「菓子パンが一個、600円なんてあり得る!?」、なっちゃんは驚愕している。


 例えば、レストランのランチの価格は、彼女の記憶の中では千円程度であった、と言う。現在は、ほぼ二千円程度である。ランチが千円程度だった当時の記憶は私の脳裏からは既に欠落している。


「私がバイトしていたお寿司屋さん、二年前に無くなっちゃったんだって。今はお洒落なカフェになってた」、なっちゃんは寂しげに漏らす。彼女のお寿司屋さんはパンデミックの荒波を乗り切れなかったのであろう。彼女の記憶の中のストックホルムがまた一つ消えてゆく。


「その時の店長さんと連絡は取れたの?」「彼は消息不明、帰国してからもしばらくは連絡を取っていたんだけど、途中で連絡が途切れてそれっきり」と、彼女は首を振った。「知り合いのつてを辿って行けば見つかるんじゃない?狭い外国人社会だし」「多分ね。その気になれば手立てはあると思うけど、敢えて探そうとも思わない」、なっちゃんは電車の外へ視線を向ける。


 一瞬、彼を探す協力をしてあげようか、とも考えたが、たとえ、昔の店長と再会したところで、どうするということでもないであろう。


 消息不明の昔の知人、日本に帰国してしまった友人達、目新しいマンションに建て替えられた以前の建物。ストックホルムはまったく馴染みのないものとなってしまった、と、あたかも初めてこの国を訪れる旅行者のように、なっちゃんは首を傾げていた。

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  地下鉄、電車、バスを乗り継いで二時間、ようやく友人の別荘に到着した。目前にバルト海を望む、絶好の立地である。


 別荘を所有するこの友人も、なっちゃんと私と同時期に渡瑞をして来ている。出発地点では皆、裸一貫であった。十年間自分の場所を探し続けて、最終的には日本にて人生をリセットしたなっちゃん、バルト海の目前に立派な別荘を所有出来るほどガムシャラに働いて来た友人、ITと語学職一筋で地味に働き続けながら、街中の小さいマンションに暮らすミニマリストの私。


 結局、いずれの生き方が一番幸せであったのか。


 この疑問に正解はない。


 バルト海からの風を背中に感じながらなっちゃんと昔話をしていたら、スウェーデンに移住したばかりの、新鮮な、なんとなく甘酸っぱい、何もかもが目新しく珍しい、希望に胸膨らましていた、若かった頃の自身を思い出した。


 それと同時に、私の中では眠っていた友情も次第に目を覚まして来た。


「スウェーデンに来たら一番最初に会いたかったのに」、と言う彼女の声調には、「親友なのに」というようなニュアンスの軽い責めが含まれていた。


 時計の針が15時を打った時、私たちは波止場近くの夏至祭りに参加した。マイポールの周りで、花輪を被った大人子供が、夏至祭の音楽に合わせて楽しそうに踊っている。


 それを懐かしそうに眺めているなっちゃんの表情を、傍から仰ぎながら、私は考えた。


 今度会えるのはまた15年後かもしれない、あるいは、これが最後になるかもしれない。それならば、この二か月間、彼女の北欧の想い出の中に、出来るだけ登場させてもらおう、と。そして、彼女の記憶の中のスウェーデンを一緒に辿りながら、希望に溢れていた移住当初の自身を取り戻してゆこう、と。
 

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北欧の冬のささやかな愉しみ

4.15.2024

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

北欧の冬のささやかな愉しみ

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フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどでは、太陽が燦燦と照りつけている時期も多く、冬でも南のほうでは凍える、ということは滅多にないであろう。観光する場所にも飽きないであろう。


それと比較してスウェーデンは!などと隣の芝生の青さを羨んでしまうことがないと言ったら嘘となる。


スウェーデン人は往々にして明るい日が好きである。太陽が顔を出すと同時にスウェーデン人も、何処からかぞろぞろと湧き出てくる。そのような国民性なので、南国に移住する人達もさぞかし多いであろう、と想像する。昨年スペインに移住をしたスウェーデン人は七万人強と記されている。ちなみに、この数値はマレーシアに在住する日本人数のおよそ三倍である。スウェーデン人口を鑑みたら比較的多いとも言える。


しかし、この国には愛国主義者も多い。スウェーデンの森と湖とバルト海を愛して止まず、海外にはさほど興味はない、そのような人達である。週末、あるいは長期休暇ごとにサマーハウスに赴き、外装あるいは内装のあちらこちらを修理したり、木陰にて本を読んだり、地平線の裏側に吸い込まれてゆく太陽の残影を惜しみながら、ワインの盃を掲げる。中庭には多種類の薔薇の花、新鮮な野菜、そしてお昼にはそれらを積んでまとめたサラダ、それを囲みながら友人達と昔ばなしを交わす。


もっとも、そのような光景は南欧でも見掛けられることが多く、むしろ、南欧のほうが多いかもしれない。それではこの北の国における醍醐味とはなんであろう。ウィンタースポーツ、サウナ、そんなところであろうか。
 

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ところで、この国に関して特記することがある。


近代史において、メガヒットを生んだミュージシャンたちを輩出した国であるということである。ABBA、ヨーロッパなどのグループに関してはご存知のかたも多いと想像される。他にも、国際的知名度が高くなくても、スウェーデン国民からは愛されているミュージシャンも多い。


私の音楽の嗜好はどちらかというと欧米よりであり、通常は、スウェーデン人ミュージシャンを好んで聴くということは無かったが、一人だけ好きなミュージシャンがいる。


そのミュージシャン、マグナスが歴史の古い町の古城にてコンサートを開催することを知り、さっそく申し込んだ。修道院を改装したホテルに一泊し、フルコースの夕食のあと、古城まで歩き、コンサートに参加するというパッケージであった。日時は二月中旬とある。

二月中旬、何故、そのような時期に開催するのであろう。寒く、空はどんよりと陰鬱で、私が一番苦手な時期である。修道院を改装したホテルなど、室内も寒そうではないか。何故、もう少し暖かい時期を選ばないのであろうか、当初はそう疑問した。

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この町は、巨大な湖のほとりに位置している。夏には遊泳客、ボート客等でこのホテルもさぞ賑わうであろう、と想像される。


しかし、冬は?冬の間は集客は難しいであろう。なるほど、コンサートを呼び物としての冬の集客、なかなか相乗的なプランではないか。


その町の第一印象は、こじんまりと可愛い街並みであったということ。第二印象は、その街並みがどんより空の下にて蒼白になっていたということ。第三印象は、雪解け水が道の泥に溶け込み道が足場が悪く、靴が汚れてしまうことを危惧したこと。


すなわち、それほどウキウキする印象ではなかった。


修道院ホテルの目前に広がる巨大な湖は氷に覆われていた。そして、その景観が体感的な寒さをさらに増幅させていた。


私達が割り当てられた部屋のある建物は、中世の修道院からは似ても似つかない1980年代の建築様式であった。部屋は広く、シャワー室にはジャクシーが備えてあったことは有難いが、出来れば修道院ホテルのほうに宿泊してみたかった。


とりあえず気を取り直して、修道院ホテルにて提供される夕食に出向いた。レストランの天井の形がその当時の様相を残していた。おそらく当時の礼拝堂であろう。レストランで食事をしていた客の大半はコンサートパッケージを購入した人達であるため、私達同様、ソワソワとしながらと食事をしていた。


食事のあと、私たちは湖畔沿いを歩きながら、コンサート会場である古城へ向かった。午後に眺めた時は氷に覆われていた巨大な湖、日没後の湖はどこまで続いているのか、どこで終わっているものか、まったく見当もつかなった。


その景観は、ひたすら静謐で、幻想的であった。氷が摩擦する不気味な音が湖のあちらこちらから響いていた。是非写真を撮りたかったが、その暗さでは、私のカメラではシャッターは押せない。


アザラシの鳴き声の如く、唸り続ける湖のほとりにて、幻想的な景観の一部と化して古城へ向かう人達のシルエットを私は目で追っていた。


これがスウェーデンの冬なのだ、と再認識をした。


太陽はない、底抜けの笑顔で騒ぐ人たちの影もない、そして気温はひたすら冷たいが、空気は澄み切っている。


古城におけるコンサート、300人ほどの観客が所狭しとその簡易椅子に座っていた。長身の人の多い国にて、ほぼ真ん中に座った私には、マグナスの姿はあまり見えなかったが、歌声とウィットの利いた小話だけは聴こえて来た。テレビでしか拝んだことのないマグナスと同じ城に居る、不思議な感覚であった。コンサートの後、終わったら一緒に写真を撮らせて頂こうかと目論んでいたが、一回目のアンコールのあと、彼は楽屋の方へ消え、再び出て来ることはなかった。

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翌日の朝、修道院のほうに朝食を取りに行った。食事をしながら、ふと斜め後ろの席を振り返ってみたら、マグナスと専属ピアニストのグンナルが座って食事をしていた。想像はしていたことだが、彼らも同じホテルに宿泊していたのだ。


話し掛けるべきか?


と、しばらく自問自答を続けた。この国では、著名人を往来で見掛けても、通常、ファンたちは騒がない。著名人のプライバシーを重んじるからであろう。


暫しの思索の末、称賛されて嫌がる人はいないであろう、という結論に達した。メガヒットを飛ばすミュージシャンであれば、称賛の言葉など聞き飽きているであろうが、彼らは国際スターというわけでもない。


逆に、今、話し掛けて置かないとおそらく後悔する、その判断が私の背中を押した。迷い過ぎてタイミングを逃して後悔したことが多すぎる。


私は、席を立って、彼らのテーブルへ近寄った。


「邪魔してすみません。でも貴方達のコンサートはファンタスティックだった、と伝えたくて」、と、グンナルの横から声を掛けた。


グンナルは驚いた様子で私を見上げ、マグナスはゆっくりと顔を上げて、「どうも有難う」と丁重に礼を述べた。


「ゆっくりと休めましたか?」、と私が訊ねると、マグナスはゆっくりと頷いた。


歴史的な街にて、幻想的かつ得体の知れない巨大な湖に魅惑されながら、古城にてコンサートに臨む。そしてそのミュージシャンと直接言葉を交わす。


これが、私の、今年の冬の一イベントであった。


スウェーデンの冬も悪くないかもしれない。

私達の時間

2.10.2024

DAYS /  Maya Column

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私達の時間

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「フロッピーディスクって知ってる?」

と、若い人たちに問い掛けてみる。

彼らはひよこのような表情で首を横に振る。

「カセットテープは?」

彼らは宇宙人に遭遇したような表情で私を見る。

カセットテープなど見たことも触ったこともないのである。

しかし、私達の一つ上の世代の人が、「コンピュータのパンチホールを見たことある?」、などと質問して来たら、私自身も、やはりひよこの如く瞬きをしているかもしれない。どのような形状のものか、まったく想像も付かない。

そのコンピューターもディスクも容量は年々増え、サイズは年々小型化する。初期の頃の米国の某国家機関のコンピューターの容量は4キロバイトであったとも聞く。今では一般家庭でもテラバイト級の容量のコンピュータが使用されている。その進化の目覚ましさにはかろうじて付いて来ていたつもりであった。よくわからない三文字のIT用語も年々増えてきている。

にも拘わらず、

「需要の多いIT職を選んで正解だったね」、と言われ続けて安心していた十年間であった。すなわち十年間、知識の更新をして来なかった。

しかし、最近になって初めて気が付いたことがある。いや、最近というわけではない。ときおり「貴方の従事しているアンティーク型のIT職を必要としているところも沢山あるから焦らないで大丈夫よ」、とのコメントを頂いたこともあったのだ。

それでも、どっしりと構えていた、焦る必要があるなどと考えてもいなかった。私の担っている職種は「需要の多いIT職」であると信じて疑っていなかった。

しかし、ある時、目が醒めた。

「私の知っている技術は時代遅れだったのだ」

世間におけるAIだとかChatGPTだとかの喧騒を横目で、私もいずれもその分野に目を向けなければいけないのかなあ、と漠然と考えていた程度であった。

しかし、私の職種に関しては、「目を向けなければいけないのかなあ」、というレベルではなく、その方面に関する造詣、技術がなければ生き延びて行けないという状況であった。

まったく悠長に構えていたものである。

そうなったら、迷わずに学習をするのみである。エンジンが掛かるのが十年間遅かったが、取り敢えず出来ることからやってゆくしかない。

そして、数週間もドップリとIT用語に浸かってみたら、アンティーク型でないほう、すなわちモダンITの用語の意味が少し分かって来た。そして、同僚のモダンITに対する関心も次第に理解出来てきた。ある種のIT用語を口にした時、分かる人にはすぐ分かる。分からない人はひよこのような表情で寡黙になる。

以前の私がそうであったように、自分には関係のないテクノロジーの話をしているのだろう、という表情である。

そして、今になって初めて、「微分解析」等、高校時代は、私にはまったく関連のないものだと思い込んでいた教科の必要性を認識した。

それでも時々、弱気になる時もある。

赤ちゃんの時からコンピュータに触れて来た世代とどうやって競合出来ると言うのだ?私が通訳からIT職に転向したのは、ほんの数年前である。

付いてゆけなくて挫折してしまったらどうするのだろう、そうなったら、いっそのこと日本へ帰国して母と一緒に慎ましく暮らそうか、などと誘惑に駆られることも多々ある。

しかし、自分に逃げ道を作ってしまってはいけないのだ。

日本の教育制度に関して、こちらの教育制度と較べて良いと思われるものがある。逃げ道があまりないことである。すなわち、脇目を振らずに直進出来ることである。

こちらの教育制度には逃げ道があり過ぎるような印象を受ける。あくまで印象である。すなわち選択肢があり過ぎるのである。自分の意志がある程度確立している大人の場合、選択肢があることは喜ばしいことであろう。しかし、幼少時には、ある程度大人が道標を示してくれたほうが脇目を振らずに前進できて楽なのではないか、あくまで持論である。

同僚の中には、数か月後に定年退職をするという人もいる。非常に優秀な方々だが、新しい技術を習得しようという意欲は見られない。それどころかそれらに懐疑的な態度を示している。これは無理もないことであるが、ITの世界では数か月の間においても変化があり、たとえそれが数か月後に退職する人であっても適応を余儀なくされる。

この国の一般的な退職年齢は、現在は66歳である。以前所属していたIT企業にて69歳まで就業している人がいると知り、驚嘆した。自分から辞職をするか、何か失敗をして解雇をされるまでは一生働けるのだ、というようなことを小耳にした。私はその人物と一緒に働いたことがある。非常に優秀な人ではあったが、新しい技術を採り入れようという意欲は見られなかった。それでも彼は、69歳の現在でも仕事を維持している。この国の寛容さであろうか。

というわけで、私も長い間のぬるま湯から立ち上がり、現実の中へ歩いてゆく覚悟がようやく付いた。

現在は、私がITを学習していた時代と異なり、以前のように学費の高い大学、および専門学校に通わずしても、すべてオンラインの教材で学習出来てしまう。その教材も自分のレベルに合ったものが溢れている。「この教本、高額のわりには、ほんの数ページしか使わない、とてもわかりにくい」、などと苦情を垂れる必要もない。

ITに関しては働き続ける限り、常に新しい技術を学んでいかなければ弾き出される。そして、そのような業界を敢えて選んだのは自分である。移民の立場でネイティブと対等に就業が出来る職種の一つである。

だから、2024年のITに追いつけるまで、しばらくは学習を優先させて頂くことになる。

ITも何もかも目まぐるしく進化する私達の時間であるが、せめて、友人達は変わらずに居てくれるであろうか?

変わらずに待って居て欲しい。
 

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星屑のステージ 羽田空港ふたたび

12.10.2023

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星屑のステージ 羽田空港ふたたび

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「長いようで短く、短いようで長い」

これは、日本を離れてから再び日本を訪れるまでの期間を形容することである。
今回の帰国は、ほぼ11か月ぶりであった。 
本来なら、休日の多い12月に帰国をしたほうがそれほど有給を取らずに済むのであるが、日本の木造建築は冬季には室内が寒すぎる。
休暇が比較的簡単に取れるのは夏なのであるが、日本の夏は、北欧の気候に慣れてしまった人間にとっては殺人的なのである。

 

というわけで今回は10月中旬から一か月の滞在となった。 
北欧から日本へ飛ぶときには、合計飛行時間の短いフィンエアーが人気があるのであるが、私は大きい機体で飛ぶほうが落ち着けるため、フィンエアーにて飛ぶことは滅多にない。
最も最近では、欧州のどの航空会社を選んでも東京までの直行は13時間を超えることも多いため、それほど大差は無いように感じられる。

 

さて、11か月ぶりのストックホルムのアーランダ空港、いつの間に工事をしていたのかはわからないが、まったく新しい開放感のある装いになっており、あたかも欧州本土の空港に居るようであった。
セキュリティーシステムに関しても変化があった。
液体物もコンピュータも取り出す必要は無いと言う。
ほんの11ヶ月の間に随分と変化があったものである。
セキュリティーにおいては、大抵の場合は、髪飾りを外して、ブーツを脱ぐように要請されるのだが、今回はそれさえも無かった。

 

まったく浦島太郎感覚である。
パンデミックが落ち着いて旅行業界が急に動き出したということであろうか。

 

そんなことを考えている間にも、幻想的な碧い山脈の上空を飛びながら、私達を乗せたボーイング機は東へ東へと進んでいた。
その時は飛行地図を追っていなかったので、雪に覆われた青い山脈は北極のものであると勘違いしていたのが、実際にはトルコ辺りの上空であったのであろう。

 

あれほど苦手であった飛行も最近ではそれほど苦には感じられない。
機窓からの景観を眺めて居ると飽きないからであろうか。
また、機内サービスの映画を数本鑑賞していればじきに到着してしまうからかもしれない。

 

それならば、もっと頻繁に帰国出来るはずではないか、と思うが、先立つものも無く、いつでも長期休暇が取れるわけでもなく、時差ぼけから回復するのにも数日間を要するため、そう簡単に帰国を出来るわけでもない。

 

「間もなく着陸、ベルト装着」なんたらのサインが機内に流れる時、形容し難い感動を覚える、毎度のことである。

 

今回、着陸寸前の機窓から臨んだ東京は、大都会であった。
欧州の都市に着陸する時には感じたことの無い迫力である。
そしてその大都会は果てしなく続いていた。

 

「私は、この大国を飛び出してしまったのだ」、強度の後悔と誇りが混在した複雑な心情を抱える私を乗せてANA便は次第に高度を下げて行った。

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一時帰国をする日本人は、大抵の場合は非常に多忙である。
私の場合も、一か月間に一年分の用事を詰め込もうとするため多忙になる。
出来るだけ家族と一緒に過ごして、家族の手助けをして、出来るだけ多くの友人と会って、出来るだけ多くの観光をして、出来るだけ頻繁に温泉に浸り、出来るだけ多く寿司を食べて、出来るだけ多くの日本食を買って帰る。

 

今回に関しては、スウェーデンからの客人が訪れていたので、滞在の半分の期間は客人のアテンドがフォーカスとなっていた。

 

そうこうしていると一か月などすぐに過ぎてしまうような印象を受けるが、そういうわけでもない。
一日一日に変化があり密度が高かったためか多少長く感じられる一か月であった。

 

一時帰国をする時には、常に日本の素晴らしさを再認識してしまう。

 

しかし、それは旅行者として短期間のみ日本を訪れているからであろうか。
生活基盤を日本へ移して、日本にて日常を過ごすことになったら、果たして今ほど素晴らしく感じられるであろうか。

 

そもそも日本で仕事は見つかるのであろうか。

 

同年代の知人は、電話によるカスタマーサービス、介護の仕事等を担っている人が多い。
自分で会社を立てた友人、会社の重役になっている友人もいないこともないが、彼女たちは多忙過ぎて、一時帰国をする私の希望日程には都合を付けられないため事情を伺うことは儘ならない。

 

仮に良い仕事が見つかったとして東京に通勤することになったとする。
しかし、私が日本を離れた理由の一つは電車に依る長距離通勤に辟易したからであった。
その事情は今も変わらないはずである。

 

子供達と離れて暮らして淋しくならないであろうか。

 

近くに居てもお互い忙しく、滅多に子供達に会うことはない。
しかし、会おうと思えば会える距離に住んでいるということは安堵出来る。

 

自然災害も日本を離れた理由の一つではなかったのか。

 

これは減少するどころか、却って増える傾向にあるように感じられる。
夏の酷暑自体が災害レベルであるとも聞く。

 

日本で暮らしたいという願望は、帰国をする度に強まるが、今回も結論が出ないまま羽田空港に到着した。

 

「星屑のステージ」との謳いの羽田空港の展望デッキ。デッキ上にも多くのLED照明が埋め込んであり、それが幻想的に点灯する。
そのデッキから展望出来る飛行機の離着陸はひたすら瀟洒であった。

 

これが、日本で眺める今回最後の夜景であった。

 

「今宵が日本から離陸する晩ではなくて、着陸した日の晩だったら良かったのにね」と、毎年毎年同じことを言いながら嘆息している。

 

そして今、北欧に戻り一週間が経った。
こちらの生活は日本へ帰国した時から何も変わっていない。

 

変わったことがあるとしたら、地表が、飛行時に機窓から眺めた山の表面のごとく、一面銀色に覆われていることぐらいである。
この国はこれから長く暗く寒い冬に突入する。

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二十五年ごとの再会

10.15.2023

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二十五年ごとの再会

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正午の針が少し動いた頃に、マンションのドア近くでガサっと音がする。

それと同時にドアまで走っていた二十五年前のあの頃。

ドアの下には青い封筒が何通か投げ入れられていた。

日本の家族、日本の友人、海外の友人から届いたエアーメールであった。

こちらに移民してからしばらくは、やりたい事も、やるべき事も、出来ることもわからず、毎日、散歩したり、こちらの友人と食事会をしたり、家族と友人達に手紙を書いたりしていた。

手書きの手紙を封筒に入れて切手を貼って送っていたのだ。

手紙を手書きでしたためるのには時間は掛かったが、それでも精魂を込めて書いていた。

そして家族と友人達も心を込めて書いて下さっていた。そんな時代もあったのだ。

しかし、箱一杯に詰まった想い出を引っ越す度ににゾロゾロと引き連れて行くわけにはいかない。

背に腹は代えられず、一通一通開いて、写真を撮っては処理することにした。

とは言っても、これがなかなか難しい。

特に、故人から戴いたものは捨てられない。

再生が出来ないからである。

それでも心を鬼にして、一通一通を処理し始めた。

捨てる前に知人達の手紙を一読をしながら驚いたことがあった。

私がこちらに移民した直後、多くの友人達と親戚達は、来瑞して私を訪ねることを約束していたのだ。

さらに、文中には具体的な訪問時期まで提案されていた。

果たしてその中の何組の親戚と友人が私を訪ねて下さったのか。

今までに訪ねて下さったのは、父方の親戚一組、母方の親戚二組、友人が五組であった。

しかし、いずれも二十五年前に来瑞を提案して下さった方々ではない。

来瑞を提案していた友人の中には、既に連絡先さえもわからなくなっている人達もいる。

今年の夏、従姉妹の一人が来瑞して私を訊ねたい、と打診して来た。

従姉妹の中では、ほとんど付き合いのないグループに属する。

その直後であろうか、断捨離の手紙処理をしている途中、彼女からのエアーメールが見つかった。

日付はやはり二十五年前のものである。

「来年の秋に、ねーちゃんを訪れて行きます」、と手紙には記されている。

 

「ようこそスウェーデンへ。二十五年目の正直だね。本来は20年前に来る予定だったみたいよ」、マンションの前で、彼女とその夫に出逢った時、私は開口一番、彼女の手紙を見せた。

 

彼女は、まったく記憶に無い、と言って笑った。

彼女の夫にはお会いしたこともなかった。

日本に残してきた子供達の面倒は一体誰が看ているのか、と私が訊ねると、「何言ってるの、うちの息子たちはもう大学生よ。両親がいなくて却って羽を伸ばしてるわよ」、と従姉妹は吹き出した。

彼女の子供が二人の息子であることも、大学生であることもまったく知るところではなかった。

彼女の私の娘達に会ったことはない。

お互い地球の裏側にて、自分たちの生活に忙殺されている間に、人生は進んでいた。

マンションの前で再会した時、お互い、すぐに相手を認識出来た。

彼女は子供の頃の面影を残していたが、現在は責任のある地位に付いており、年齢相応の表情になっていた。

血縁とは不思議なものである。

二十五年以上の空白の時代があっても、親戚は親戚なのだ。

 

私たちは、一緒にレバノン料理のレストランにて昼食を取り、ストックホルム中心の島々を歩き回った。

私達が、社会人になってからの昔話を語ることはなかった。

社会人になってからの私たちには共通の過去は無かったからである。

 

従姉妹は、私のことを夫にこう説明していた。

「ねーちゃんはね、私達の親分だったの。いつもいろいろなことを企画して、私達に命令していたの。でもそれがとても面白かったから、私たちはみんな従っていたのよ」

私には何の記憶が無いことであった。

 

私の記憶にあった彼女は、たんなる鼻を垂らしていた幼い女の子、であった。

その彼女がそれほどはるか昔のことを覚えていたということに感嘆した。

その鼻を垂らしていた従兄弟は、今では美しい女性に成長している。

 

叔母、すなわち彼女の母は、私のことをいじめっ子であったと形容しており、それを反芻していた。

そのため、私もそのような記憶を植え付けられていた。

しかし、それにも拘わらず、従姉妹は私に好意的な感情を抱いてくれていたようである。

三人でストックホルム中心の島々を数時間も歩いていると、私達の距離は徐々に狭まって来た。

この日まで会ったことも無かった彼女の夫とも、友人のように話が出来るようになっていた。

 

夕食は我が家で召し上がって頂いた。  

 スウェーデンらしいものを試したいと言うので、ザリガニを買ってきておいた。

チーズパイ、ポテトと頂くものであるが、楽しんで頂いたようである。

 

夜も更けて来たころに、彼らは私のマンションを後にした。

滞在中のホテルに戻るためである。

「今度はいつ会えるんだろうね?」

「二十五年以内には再会したいね」

などという言葉を交わし、私は彼らの背中を見送った。

次回彼らの背中を見送るのはいつのことであろうか。

 

最近では、親戚に会える機会は、冠婚葬祭の時のみである。

残念ながら葬の機会が多くなって来たが、大抵の場合、私はその葬にさえ参加も出来ない。

血縁の方が亡くなったことを知らされるのは、大抵の場合、かなりあとのことになる。

祖母が亡くなったことを知ったのは没後の三年後であった。

 

私には従兄弟が比較的多いが、彼らの子女もそろそろ婚姻の年齢に達する。

しかし、彼らにははお会いしたことさえないので、彼らの婚姻に招待されることもない。

それが、祖国を離れる、ということを意味することかもしれない。

しょせん、友人でも血縁のある人々でも、それほど頻繁に会えるわけではない。

しかし今回、この街にて、従姉妹に会ったことによって、お互いに対して抱いていた記憶の断片は塗り替えられた。

 「鼻垂れ小僧」から、「美しいキャリア・ウーマン」へ。

 「親分」から、「異国にて苦労しているねーちゃん」へ。

今度はいつ会えるのであろうか。

おそらく、それほどすぐには会えないであろう。

彼女は今後も東京における生活に忙殺されることになる。

しかし、ある秋晴れの午後に、従姉妹のねーちゃんと一緒に小高い丘を歩いてストックホルムの街を一望したことを、時々ふっと思い出してくれたら、などと願う。

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アロさんに押された背中

8.5.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

アロさんに押された背中

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アロさんが新曲を発表された。

 
アロさんとは、この美しいウェブマガジンの火付け役である。

 
面識のない方をいきなり「アロさん」とニックネームで呼ぶことは、招待もされていないのに、強引にメンバーズクラブに入るような感覚で苦手なのだが、このエッセイにては便宜上そう呼ばせて頂こう。

 
何故なら、正式名の木ノ下さんを木の下さんと綴ってしまったことがあるからである。
エッセイにおいて、木ノ下さんと何度も言及させて頂いたら、木之下さん、木下さん、揚げ句の果てには、山下さんなどと誤記してしまう危険もある。
文章にニコニコマーク等を付けて下さる方であるが、実は、こだわりもプライドもかなり高い方だと理解している。
よって、そのような基礎的ミスで気を悪くさせてしまうことは回避したい。

 
ということで、今だけはアロさんと呼ばせて頂くことにしよう。

 
アロさんの新曲、「Hollow Pain」、ノリが良いのでPCで何度か拝聴させて頂いていたら、いつの間にか、Youtubeの連想Mixの中に入っていた。

 
考えてみたらアロさんとの出会いは、やはり音楽が関係していた。

 
「僕のマガジンに寄稿をしてくれませんか?」、と、お声が掛かった時、どのような方なのかと、同氏の綴られている記事を拝読させて頂いた。音楽の記事であった。

 
太陽の下でキラキラとダイナミックに歌われている方、それが第一印象であったであろうか。
その後、デザイナーとしての影が音楽家としての影を代替して来た。

 
このマガジンに執筆されていらっしゃる方々も、それぞれキラキラとされていらっしゃる。
キラキラばかりをリクルートされていらっしゃるアロさんが何故私を、と疑問には感じたが、快諾をさせて頂いた。

 
一か月に一回、という頻度は少ないようで多い。
というのは、自宅からリモートで働いた頃などは、人と接触する機会がさほどない。
よってエッセイに書きつけたいような事象が発生しない。

 
スーパーマーケットぐらいへは足を延ばしたが、そこで発生するような事件と言えば、会計を間違えられたとか、自動ドアが空かずに外に出られなかった人が、大音声で怒っていた、とか、国営酒店でアルコール中毒の女性が、男性従業員三人に向かってイチャモンを付けていて、その従業員達が怖がって後ずさっていたとか、せいぜいその程度のものである。

 
ここには、笑いもドラマもない。 
それでも毎回、乏しい体験から何かしらを絞り出し、「こんな記事でええんかな?」、などと頭を下げながらアロさんに提出してみる。

 
アロさんは、それでも毎回原稿を「有難う御座います」、と受け取り、美しくレイアウトして下さる。

私の原稿だけではない、皆様の原稿である。
夥しい数である。
一人一人の原稿を御高覧をされる時間的余裕など無いであろうと思っていたが、時々、記事の内容に関して感想を述べて下さる時もあるので、一応検閲は入れられているのかもしれない。

  
今月に関しては、話題が皆無であったわけではないが、書き始めていた時、なんとなくアロさんのことを書きたくなってしまい、締め切り日の今日になって急遽進路を変えた。

 
しかし、このマガジンに寄せさせて頂くべき記事は、私自身の生活を綴らせて頂くもので、アロさんを讃えるものではない。
何故にアロさんに関する考察を千文字近くも綴らせて頂いたのか、しかも「貴方、僕のこと全然わかっていませんよ」、と諭される危険も冒して。

 
アロさんの私の生活における効能とは何であろうか。 
私の単調な生活に、湘南の爽やかな風を吹き込んで下さったことであろうか、などと気障なことは言わない。
私のエッセイには詩はない。
あまり気障なことを言ったり書いたりすると、歯が浮きそうな錯覚を起こすからである。

 
というわけで具体的に述べさせて頂くと、

「僕のマガジンに寄稿してくれませんか?」、と打診されて悪い気がする人はあまりいないのではないかと思われる。
美しいマガジンである。
そこに自身の活字が並ぶということは喜ばしいことである。

 
また、締め切りがある、という寄稿にもメリハリが付く。
私たち、特に海外に在住する人間は、定期的に書かなければ日本語を確実に失ってゆく。 
 

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最近、小説を書いてみたくなった。 
無性に書いてみたくなったのである。

  
こちらに移住したばかりのころは、少し小説を書いていた。
こちらから一番最初に小説コンテストに参加したサイコミステリー小説は、難関と呼ばれた予選を通過した。
小冊子に、この町の歴史的事件の記事を、数年間掲載させて頂いたこともあった。
単に楽しかったので書いていたのである。
こちらの著名な歴史小説第一人者に連絡をして、翻訳の企画等も持ち込んだりしていた。

 
スウェーデンの歴史小説など、果たして需要があるものか、と、知り合いの日本人小説家に質問してみた。
テレビ等にも時々出演されている著名な小説家である。
大昔に旅行先で知り合い、彼が難儀しているところを私が多少助けたことがある。

 
同氏からの返答は果して、

「貴方にはお世話になったので、一回だけお礼をします。貴方が原稿を書いたら出版社に持って行ってあげます。でも一回だけですよ」、と不機嫌そうなものであった。

「スウェーデンの歴史小説など、果たして日本で需要があるのか?」、という単純な質問の返答が、何故上記になるのか理解不能であったが、その返答は私の志気を下げるには十分すぎる一言であった。
何故なら、それからは一切小説は書いていないからである。

 
しかし、最近はまた少しづつ筆を持ち始めることが出来た。

「僕のマガジンに寄稿をしてくれませんか?」

 
その一言が、おそらく大きなきっかけになっていたのだ。

 
アロさんは詩人である。
そしてその詩はHollow Painの中で粋に踊る。
何年間も詩を書いて作曲をしていなかった彼が30年ぶりに曲を発表した。
そしてそれはまったく色褪せていない。

 
私も、かつて好きだった小説をふたたび書いてみよう。

 
と背中を押して下さったアロさんありがとう。
分野は異なっていても自分の世界を創造したい心情は同じ、一緒に頑張って行きたい。

  
さて、この原稿は アロさんの検閲無しでそのまま掲載して頂けると良いのだが。
 

期間限定だから

6.10.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

期間限定だから

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娘を乗せた空港バスが出発した。 
金曜日の事であった。  
火曜日に海岸にて待ち合わせ、森の中を一緒に散歩をした。繁華街へ続く交差点にて別れの言葉を述べた。

私は彼女の後ろ姿が見えなくなるまでずっと見送っていたが、彼女は後ろを振り向かない。
いつもの事だ。
一つの行事が終わった途端に次の行事のことで頭が一杯になっている。

彼女がストックホルムを発つのは金曜日であったので、会おうと思えば、水曜日も木曜日も会えたはずであった。

しかし、会ってどうなるというのであろう。
何度会ってみたところで彼女は金曜日に発ってしまう。
未練がましいにもほどがある。

しかし、空港バスの発車時刻が近付くに連れ、居ても立っても居られなくなり、勤務中であったが、自転車に飛び乗った。

「ママ、ちょっと異常じゃない?」

娘は呆れた。

自分が親になってみないと、この心情は理解出来ないのであろう、と実感した。

娘は、ストックホルムの空が明るくなりつつある時に南から到着した。

自分が一体どの国で生活すべきであるのかを検証するためであった。

「私、スウェーデン人大好き、世界で一番優しい国民だと思う」、娘は言う。

ロンドン、ニューヨーク、世界各国で仕事をして来た彼女は今、スウェーデンが一番好きだと言う。

以前、冬に帰国した時は、「スウェーデンは平和過ぎて。シニアにはとてもいい国だとは思うけど」、との感想を述べていた。

彼女はベジタリアンであり、スウェーデンはベジタリアンには優しい国である。
彼女の住む国はグルメでは有名ではあるが、決してベジタリアンには優しい国ではない。

「この国の言語は、日常会話に関しては苦労しないけれど、ビジネスにおいて対等に扱ってもらえるようになるには何十年も掛かるかも、あるいは、永久に不可能かもしれない」

彼女は、寂し気に呟く。

言語に関しては、私と状況が酷似している。

同じ趣旨のことを言っていても、まわりの人々は流暢なスウェーデン語を駆使するネイティブの同僚の意見へ耳を傾ける。
社の方針が変わったとしても、私はかなり時間が経ったあとで初めて理解する。
複雑な技術会議に同席すると、理解不足のため、いつの間にか集中力が欠けている。

だからといって、日本語が母国語である日本にて働こう、という気持ちは起こらない。
再び日本にて暮らすことは渇望しているが、就業となると事情は異なる。

私が日本で就業していた時の状況は、現在は数段改善されている可能性もある。
「働き方改革」、と呼ばれる試みも実施されたようである。 
しかし、女性イコールお茶くみ、という風習が残っていた勤務先もあった。
タイムカードがある勤務先も残っているようである。

娘は、外国にて暮らすことを渇望していた。
パンデミックが最初に下火になったと同時に外国にて駐在を開始した。
最初は一年間の予定であったが、それが一年間半になった。

今回、彼女は一か月ストックホルムにて働いた。 
ほぼ毎日18時には帰宅していた。 
駐在先にては18時に帰宅出来たことなど滅多に無かったと言う。
勤務日に友人に会う時間があることなど無かったということである。

帰国した時は大抵父親の家に住んでいる彼女は、土曜日の昼はいつも私の家に来て私の手作り料理を平らげる。
私の手料理が一番好きだと言う。

私にとっての毎週土曜日は、料理作りに始まり、その片づけに終わっていた。
それでも、娘と過ごす時間は至福の一時であった。
このルーティンが永遠に続けば嬉しい、と感じたこともあるが、それは儘ならないこともわかっていた。
彼女は、おそらく一か月が経ったら再びスウェーデンを離れる。

ストックホルムが初夏の兆しに染まる頃、人々の気持ちも自ずと浮き立つ。

今年の春、彼女はストックホルムの生活を、一か月間心底満喫していた。

期間限定の滞在が終わるころ彼女は決心を固めた。

「一年間だけ外国で頑張ってみる」

彼女がどう考えているかは知る由もないが、私には何となく想像が付く。

一年ではおそらく終わらない。

おそらく今回の駐在は数年に亘るのではないか。

父が健在の時、父母は時折、ボソッと本音を漏らした。

「そろそろ帰って来てくれないかな、孫たちとも一緒に暮らしたいし。日本で仕事をしなくとも、贅沢をしなければ退職金で暮らしていけるから」

父母の心情も理解出来た。

しかし、私は志半ばで頓挫するわけには行かなかった。
大志と言うものでもないが、海外にてフルタイムの仕事を得るために私は多大な努力を積んで来た。
途中で全てを投げ出して振り出しに戻る、両親を幸福にすることは出来たかもしれないが、私にとっては燃焼仕切れない人生になっていたであろう。

娘がストックホルムを発って数日間が過ぎた。

毎週土曜日に早起きして彼女のために昼食を作る。
楽しいひとときではあったが、永遠に出来ることでもなかった。
期間限定であったから出来たことである。私にも私の生活がある。

そして、彼女にとってストックホルムがバラ色に感じられたのは、もう当分ストックホルムに戻ることはないという、期間限定の滞在であったからではなかろうか。

彼女は異国にて彼女の生活を再開し、私も少しづつ通常の生活習慣を取り戻しつつある。

巷の人々の話題にのぼることは

4.10.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

巷の人々の話題にのぼることは

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ある日のアフターワークにて知人と話す機会があった。

67歳を迎え、晴れて退職をされた男性であった。

あるいは、「一旦退職はされたが再び戻られた」、と表現するほうが正確かもしれない。

週に一日だけ出勤される、という話である。

「僕は銀行に一千万円相当あるんだ」

と、彼は抑揚の無い口調でそう宣った。

アフターワークなので多少アルコールも入っていたのであろう。 


一千万円。 


67歳、健康かつ独身の男性にとって、一千万円という金額は果して十分なのであろうか。

郊外のマンション住まい、田舎に小さい別荘、平均的な乗用車を所有する極平均的なスウェーデン人である。

特に高級な時計をしているわけでもなく、高額な趣味に投財しているという印象もない。

「一千万円しかないので退職後も働かなくてはいけない」、という意味合いであった場合、辻褄は合う。

67歳になった現在でも週一回出勤をしているのであるから。

 
上司の一人が64歳を迎えた。  

「65歳を迎えたその日からは、一切働かないつもりだ」

と、彼は日頃から宣言しており、65歳の誕生までの月日をカウントダウンしていた。


しかし、


最近はどうも雲行きが怪しくなって来た。

彼は、定年後も三年間ほど勤務を継続するという選択肢を考慮し始めたようであった。

定年退職を心底望んでいた人であったため、彼の方針変更はまわりを困惑させた。

彼は、その理由をこのように説いた。

 

「定年退職をしたいことはやまやまだが、難しくなって来たんだよ、経済的に」

 
私に記憶違いが無ければ、彼は少なく見積もって半億円相当の資産を擁しているはずである。

それにも拘わらず、老後の経済には不安を感じている。

この国には裕福な人々も多いが、あらゆる世帯が彼ほど資産を擁しているわけではない。

半億円ほどの財産を擁していても経済的に難しいのであれば、銀行に一千万円を残す知人の場合はどうであろう。

 

また、ごく平均的なサラリーマンである私の場合は如何であろう。

私の場合は、さらに、外国人であるという様々なハンディもある。

いざとなった時、親族の助けを借りるというような恩恵にも預かれない。

 
昨年、一時帰国していた日本からこちらに戻ってきてスーパーマーケットに出向いた時のことである。

物価の安い日本から、直接、物価の高い北欧に戻って来る時は、常に多少の衝撃を受ける。

しかし、今回の衝撃は通常のものよりは強烈であった。

品物によっては二倍に跳ね上がっているものもあったからである。

 

日本のニュースを追っていると、「XX商品は25年ぶりに値上げが決定されました」、などというニュースを頻繁に耳にした。

しかし、その値上げの金額は4円、20円という程度であった。

しかし、こちらのスーパーに関しては、一週間ごとに価格が顕著に上昇している印象を受ける。

以前は二リットル250円程度であったオレンジジュースは270円、290円、310円、350円と店を訪れる度に上昇している。

23年ぶりに4円上げる、というだけでニュースになっている日本とは勝手が相当異なる。

今後、オレンジジュースの価格が再び200円台までに下がることはあり得るのであろうか。

10個入りの卵の価格は500円から300円に戻るのであろうか。

さいわい私の場合は、別荘も車も所有していないため、別荘の電気料金、車のガソリン代、駐車場費用、諸々の保険料等のコストからは免れている。

 
しかし、マンションの共益費用は、この半年ぐらいで1,5倍になっている。

今後もさらに上げなくては収支が合わない、との報告を受けている。


今はまさに、「インフレ」、という現象を目の当たりにしている日々である。

 
私の消費を見直してみる。

私は大安売りの時に食料を大量に買い込む。

期間内に消費が間に合わず、結局捨てる羽目になる。

また、価格に拘わらず、いつか使うであろうと見込んで購入するもの。

珍しいからと購入しても結局使い方を把握出来ずに捨ててしまう食材も多い。

 

また、生活費用に関しては、大半を占めるのは水道料金である。

お湯の料金は冷水の八倍である。

私は手を洗う時はかなり大量の高温水を使用するため、水道料金は驚愕するほど高額になる。

 
このように、冷静に自身の消費を分析してみると、比較的無駄が多い。 

当面必要のないものは購入を控える。

限られた資源は大切に使う。

そんな些細な努力でも、地道に続けてゆけば当面は辛うじて暮らしてゆけるであろう。


「バターと油と卵がまた値上がりした」、「住宅ローンの利息が急激に上がったから生活がかなり苦しくなった」、「65歳になっても定年退職出来ない」

巷ではそのような悲嘆が聞こえる。


しかし、その一方の巷では、

輸送手段を省くための野菜等の室内栽培、近場での魚の養殖等が推奨され、増えて来ている。


人間とは、

大昔から順応性のある生物であったため、今後も、あらゆる逆境に対して何らかの打開策を打ち出して行くことであろう。


日本においては、老後の二千万円問題なるものが話題になっていた。

半億円の資産を擁しながらも、65歳退職を諦めつつある上司。

そして、銀行に一千万円相当あると酔いの席で告白した67歳の知人。

果たしてこの国において老後に必要となってくる資産はいくらぐらいなのであろうか。

 

結局のところ、

一千万円か半億円か、という議論は用をなさない。

肝心なことは、私が定年退職に至る頃にはいくら必要になっているか、である。

果たして、現在の生活レベルは維持できるであろうか。

十年以上も先の経済に関しては全く予測が付かない。

しかし、おそらく一千万円という数値は微妙なところである。

どちらにせよ足りなくなる可能性があるのであれば、お金は、この刹那を楽しむために使うべきかもしれない。

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日本恋しい病

2.8.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

日本恋しい病

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「これからどうするつもり?」

 
流行病で配偶者を失った友人に、こう問いかけた。配偶者は日本人であった。 

 
「大阪に帰るかもしれん」 

 
彼女はこう答える。

ストックホルムにて寿司を握っていた日本人青年と結婚した彼女は、彼が亡くなったあとも、一人で寿司を握り続けていた。

配偶者が日本人であるため、スウェーデンには親戚もいない。子供達もそれぞれ独立している。


「寿司だって、いつまで握れるかわからへん、立ち仕事やし」


海外から日本のニュースを追っていると、日本はこの先大丈夫なのであろうか、と危惧する機会が多い。 
隣国からはいろいろなものがビュンビュン飛んでくる。円の価値は落ち続けていた。
南海トラフ巨大地震は懸念されている。
その他、憂慮すべきことは数え切れない。


しかし、いざ日本に到着してみると、空港を出た瞬間から、日本が如何に機能する国であるかを再認識した。

ほぼ四年間も帰国していなかったため忘れていたものだ。

バス会社は懇切丁寧にバスの乗り場を説明してくれる。
空港バスは待つべきところで、時間通りに到着して居り、係りの方が荷物を丁寧に積んでくれる。


そして街の喧騒。

バスを降りたところには、飲食店がひしめき合っており、街には活気がある。
東京等の大都市の中心部ではなく、神奈川の地方都市の駅前である。
どの飲食店も美味しそうなメニューを提示している。

スウェーデンにおける食生活が特別に侘しい、というわけではない。
寿司握りのコンテストで優勝したスウェーデン人なども輩出されている。
しかし、飲食店、食材の数は日本の比ではない。
日本の食文化が豊か過ぎるのである。

そして、日本人の私は、その食文化を享受してきた。

 

こちらに移住してから「いずれは日本に帰りたい」、と思い始めたのはいつ頃からであろうか。

我武者羅に子育てをして、勉強をしていた時は、おそらく一点の目標しか見えていなかった。

この国にて経済的に独立すること。

そして、それは十年前に実現した。

仮に、くだんの友人が、最終的に日本に帰ることに腹を決めたとしたら、「それじゃあ、私も」、と強く背中を押されそうである。


しかし、私は今は日本には帰れない。

理由はいくかある。

まずは、

定年まではまだ20年近くを余す。

 

「日本でも働けるでしょう?」、と時々質問される。

 

しかし、こちらで働いていた日本人が、数年間日本にて働いた後、こちらへ舞い戻って来たケースを知っている。

 

「日本では働けないわ」、と彼女は言う。


詳細は分りかねるが、ある程度の推察は可能である。

タイムカードもなく、自主管理が重視されるこの国の労働スタイルに慣れてしまっていると、日本における労働スタイルに再び組み込まれてゆくことは至難の業に感じられる。
長時間、満員電車に揺られて通勤することに関しても今となっては現実味がない。


もう一つの理由は、

日本への憧れが単なる幻影であった場合、生活基盤を日本に移してしまったあとでは後戻りが難しいことである。

両親の抱く寂寥感に後ろ髪を引かれながらも日本を去ることに決めた当時には、自分なりの理由があった筈である。
その理由が現在消失したわけではないであろう。

当時、欧州への憧れは存在していたであろうか。 
米国かぶれであった私にとって、欧州は憧れのそれほどの土地ではなかったはずである。
しかし海外に住むことは所望していた。

「幸福度」云々、というコンセプトが往々に国際比較において引き合いにされる。
スウェーデンも、北欧の中では最下位とは言え、一応上位二十位以内には入っている。

確かに、食文化を比較しなければ住みやすい国ではある。


今後、日本に住むべきなのか、スウェーデンに住むべきなのか。

あたかも花占いをするように、この質問を頻繁に反芻している。
そしてその花占いは、いずれの結果になっても納得は出来ない。


高校時代の友人達と日本にて再会した。 
皆、「日本は食べ物も美味しいし、何でも手に入るし最高の国だ」、と、日本への満足度を語る。 
私もつくづく共感した。 
やはり、人間の生理的欲求の多くを占めるのは食事なのである。


「和食ならこちらでも作れるでしょう?」

同僚が宥めようとする。

日本食イコール寿司と思い込んでいる欧州出身の同僚である。

日本へ一時帰国をするつど、50キロ以上の日本食材をこちらへ持ち込む。
日本のカレールー、ふりかけ、和食の出汁等である。
それで何とか次の帰国まで持ちこたえさせる。

こちらにも舌鼓を打つような握り寿司を出してくれる寿司屋もある。
フライマシーンがあるので、豚カツも天ぷらも簡単に出来る。
お好み焼きなども難なく材料が揃う。

パスタおよびピザに関してはこちらには美味しい店が多い。
タイ料理、ベトナム料理、タパス等も評判が良く、美味のところが多いではないか。

このように悶々と日本を偲び、日本食を渇望しながらも、スウェーデンにおける食文化の発展をも歓迎している。

 

そうこうしているうちに、こちらに戻ってから一か月が経過しようとしている。
その間、日常の雑多に追われ、日本への想いは脳裏の奥深くに押し込まれてゆく。

これが、私が日本への一時帰国後に患う「日本恋しい病」とその恢復プロセスである。
これに罹患する海外在住邦人は、どうやら私のみではないようである。

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石橋を叩きながら生きて来たけれど

11.7.2022

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バルト海をヒールで闊歩して

石橋を叩きながら生きて来たけれど

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先日、久しぶりに講習会というものに参加をさせて頂いた。

六時間の講習に、昼食が含まれて、費用は高級ホテルの二、三泊分程度である。

すなわち非常に高額なものであった。

参加者が15人ほどの少人数制の講習会であったが、他の人の自己紹介を聞いていると、私以外の全ての人には「長」が付いている。

 はて、私の職務タイトルのどこかに「長」は付いているであろうか。

考えてみても思い付かない。

開発者、と言えば多少聞こえは良いが、「長」はついてない。

そういえば、最近、一つのITシステムの責任者を担うことになった。

そう紹介すれば良かった、などと多少後悔もしたが、責任者でも「長」ではない。

いずれにせよ、他のメンバーに再会することはないであろうし、再会したところでなんらかの難があるわけでもない。

結局、肩書などは、特にこの国においては、それほど差別的な意味をもたない。

その14人の参加者の「長」の中で、一人だけ印象に残った女性が居た。

 

若いアジア人女性であったが、流暢なスウェーデン語を駆使していた。

こちらで生まれた人であろう。

漆黒の長い髪、二センチほどもありそうな重そうな人工まつげ。

不自然に膨らんでいた唇にもおそらく手を加えていたのであろう。

人工的とはいえ、完璧な外見を演出していた。

どちらかというとお堅い雰囲気の参加者の中で、彼女の存在は確実に浮いていた。

知識層のなかにはそのような風貌の女性を敬遠する傾向もある。

それはこの国に限った事ではないかもしれないが。

 

しかし、他の人が彼女に対してどのような感情を抱こうと、彼女には気に掛ける理由もなかった。

おそらく、参加者の中では彼女が事業的には一番成功しているのであろうから。

その漲る自信が彼女を輝かせていた。

 

彼女は一人手で事業を起こした。

その事業が軌道に乗るまでは相当の下積み努力を要したと推察される。

 

私は彼女の名刺を求めた。

 

残業、残業と仕事に忙殺され、ストレスに支配される直前に短い旅行を遂行する。

そのような現実逃避をすることにより、なんとか心の安寧を保つ。

パンデミック期以前と以降はそのような日常を、私は十年以上も継続して来ている。

 

学生時代には一つの理想があった。

フルタイムの技術職を獲得し、経済的に自立するという理想であった。

 

現在、その理想は叶っている。

 

果して、この現状が私にとっての理想、永年求めていたものであったのであろうか。

 

一旦、理想が叶ってしまうとその有難みを忘れてしまう。

昔話等を読んでいると、そのような人の性が揶揄されているような寓話も多い。

 

私の場合、その有難みを忘れたわけではないが、その理想が実現するまでの過程が懐かしく感じられることも多々ある。

 

職を得るために、朝も昼も夜も、家中に暗記用シートを貼り付け猛勉強していたあの頃、暗中模索なりにも努力をしていた自分の情熱は、一体どこへいってしまったのであろうか。

 

真面目だ、慎重だ、石橋を叩いて渡る人だ、などと形容され続け、自分でも、お堅い仕事が適職である、と認識していた。

 

そしてこのお堅く安定した仕事のお陰で、パンデミック時勢においても辛うじて乗り切って行くことが出来た。

 

私の選択は間違ってはいなかったはずだ。

 

先日、娘の一人がウェブショップを始めたい、との希望を告げた。

 

私は、「そんなこと、もう皆やってるでしょう」、「どこにそんなことを始めるお金があるの?」、「ちゃんと事業の勉強をしなきゃ難しいでしょう」、と即座に反論態勢に入ろうとした。

 

しかし、すんでのところでそれらの言葉を飲みこんだ。

 

自身の幼少時代を追憶したからだ。

 

子供なりに漫画を描くのが好きで、漫画家になりたいと親に告げたことがある。

 

親からは反対された。

「有名になって自立できる人はほんの一握りだから、苦労は目に見えている」、という理由であった。

 

十代の後半には、フライトアテンダントになりたい、と親に告げた。

 

親からは反対された。「体力的に大変だから」、という理由であった。

 

そのため、結局、双方とも諦めた。最も反対されて諦めるほどであればそれほど本気ではなかったということであろうが。

 

親が反対をした理由は、娘に苦労をさせたくない、というものであったことは理解している。

 

しかし、

もし晴れて漫画家として自立していたら、フライトアテンダントとして世界中の空を飛んでいたら、今頃はどのような人生を送っていたのであろうか、と想像してみることもある。 

今、私は自分の子供に対して同じことをしようとしていた。

 

すなわち、「大変だから、無理だから止めた方が良い」、と(諭す)構えをしていたのだ。

一人でウェブショップを構築することは確かに大変なことであろう。

しかし大変であるがために努力をする甲斐もあるはずである。

失敗して挫折するかもしれない。

しかし失敗や挫折が一つもない人生など果たして存在するのであろうか。

 

人生はたったの一度のみである。

 

「大変そうだから」、と言って蓋も開けずにすべてを諦めてしまっていたら、果たして人生にはどのような意味があるのであろうか。

 

「簡単ではないけれど、やるだけやってみたら。技術面ではサポートするから」

 

私は、娘の希望に対して、このように呼応することした。

異国で得た朋友

10.7.2022

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バルト海をヒールで闊歩して

異国で得た朋友

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「状況が許す時にやりたいことをやっておかなければ」、との焦燥感に駆られ始めてからは、ほぼ毎月のように洋行を達している。

お陰様で銀行口座の数字は一向に上昇しない。

しかし、現在のところは大きな出費をする予定もないため、今年のところはなんとかやっていけそうである。

のちに、何らかの理由にて再び洋行が制限されたときに後悔するよりは数段ましである。  

六月にパリへの個人旅行を遂行した。 

パリから戻った時、何となくやり残したことがあったように感じた。

そのため私は、性懲りもなく、再度パリ行きの航空券をブッキングしてしまった。

同じ年に同じ国を二回訪問することは初めてであった。

 

ふと思い立ったことがあった。

今回は友人と一緒に旅行してみようか、と。

時々一緒に散歩をしたりする日本人女性の友人がいる。

感情の起伏がほぼ皆無である面においては私と相似している女性である。

私よりも多少年上ではあるが、彼女は敏腕のプログラマであり、仕事の話においても、ある程度理解をし合える。

仕事から離れるための旅行であるため、仕事の話をするつもりはないが、相互理解が出来るため、気心が知れている、と私は勝手に感じている。

相手がどのように感じているのかは疑問であるが。

 

「駄目もとで打診するのだけど、一緒にパリに行かない?」

 

文字通り駄目もとで彼女に伺いを立ててみた。

翌日、彼女から快諾が戻って来た。

 

「いいよ。パリは随分長い間訪れてない。前回訪問した時は、ずっと雨が降っていたし」、と。

 

こうして私は、晴れて女友達と一緒に洋行をすることになった。

なんの問題もなければ数日後に出発することになる。

現在まで、女友達と一緒に洋行をしたことは二回である。

いずれも、女同士の旅行特有の醍醐味もあり、苛立ちもあった。

 

最初の旅は、高校時代の同級生と、卒業後に一緒にハワイに旅したことであった。

随分、昔のことではあるが、それほど残念な記憶はない。

 

二回目の洋行は、ストックホルムから、イタリアのミラノに出掛けた時であった。

この時は、ストックホルムに同時期に移民してきた日本人の友人と一緒に出掛けた。

女優の中谷美紀さんと顔の雰囲気が相似しており、器用で溌剌とした女性であった。

移民当時は二人とも特に何もしていなかったため、お互いに毎日一時間近くも取り留めのない長電話で費やした。

さらに、一週間に最低一回は、一緒にご飯を作って団欒をしていた。

また、お互いに、家庭内にて辛いことが起きると、相手のところに駆け込んで長時間話し込んでいた。

これほどの家族のように腹を割って付きあうことの出来る大親友は、かつて存在していたであろうか。

 

ある冬、某航空会社がイタリア・ミラノ行きの航空券のキャンペーンを行っていた。

私は大親友を誘って一緒にミラノを訪れることにした。

その際、当時乳児であった次女も、面倒を看てくれる人がいなかったため、連れて行くこととした。

 

私は彼女に提案した。

「私が二人分の航空券を買うから、買い物をしている時などに、時々赤ちゃんの面倒を看てくれないか」、と。

私達の友情が破綻し始めたのは、この旅行のあたりであろうか。

私としては、彼女にほとんど頼み事はしなかった、と記憶している。

彼女は華奢なサンダルを履いて来ていたため、時々ベビーカーを押して頂くことも難儀であると感じたからである。 

結局、彼女に子守りのお願いをしたのは、買い物をしている時の一回だけであると記憶しているが、彼女がどのように感じていたのかは、今となってはわかり得ない。

ほんの三泊四日の旅行であったが、友情に亀裂が生ずるには十分であったのあろう。

 

この旅行のあと、お互い忙しくなり始めたことも起因するが、徐々に会う回数が減少し、彼女が帰国する頃には、数か月に一回電話で時候の挨拶をする程度になった。

私が二人分の航空券を負担し、その代替として子守りをお願いしたことにより、結果的には、目に見えない主従関係が形成されてしまったのであろう。

スウェーデンという土地柄が合う人も居れば、また合わない人も居る。

彼女はこの国にて、十年間努力をし続けたが、最終的には、日本に帰国し鹿児島にて再婚した。

パンデミックの蔓延し始める数年前の夏に、私と娘達は日本に一時帰国した。

もと大親友は、東京を訪れる用事が出来たため、鹿児島から上京する、会えないだろうか、と打診して来た。

彼女は横濱を知らないと言う。

私達は、横濱の関内で待ち合わせをした。

何年かぶりで会う友人であった。

かつて日本で会ったことは無かったが、私達はすぐに打ち解けることが出来た。

 

私達は中華街で昼食を取ったあと、山手の方を散歩し始めた。 

彼女に私の横濱を案内してみたかった。

その日も暑い日であった。 

元町公園近くの急坂を登る時、暑さの勢いはさらに増していた。

彼女はこの日も華奢なサンダルを履いていた。

港の見える丘公園の高台に立って、一緒に海を見ていた時彼女は静かに呟いた。

 

「私達、日本で知り合っていたら、きっと友人にはなってなかったね。貴方って、私が通常仲良くする友人のタイプとまったく違うから」

 

さりげなくそう呟いた彼女の言葉が、数年間を経た現在でも、私の心のどこかに蟠りを残している。

彼女は、それ以上、その発言を掘り下げなかったので、私は、彼女の意図するところを自分で想像するしかなかった。

彼女の発言には、どちらかというと負のニュアンスが含まれていた。

すなわち、彼女が私と交友を深めたの理由は、同じ年齢の日本人の少ない特殊な環境であったからであり、他に友人の選択肢が無かったから、ということであろう。

それが、永年、何でも語り合えていた「大親友」から残された言葉であった。

かりそめの友情という言葉が脳裏に浮かんだ。

  

今回、友人と一緒に訪れるパリ、蓋を開けたらどのような旅になるかは未知である。

友情を温存してゆきたい友人と一緒に洋行に出掛けるということは、一種の賭けである。

旅を通して、友情がさらに深まることもあれば、前回のように顕著な亀裂が入り得る危惧もある。

私達は、この異国にあと何年、何十年暮らしてゆくかはわからない。

異国にて年輪を重ねた時、おそらく一番渇望するものは、腹を割って母国語で一緒に話を出来るような真の友人であろう。

 

「少しでも不満があったら、お互い抱え込まずに即座に相手に伝えようね」

私は、一緒に旅をする友人にそう伝えた。

 

「大丈夫よ」、彼女はそう言って微笑んだ。

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プロポーズの終着駅

9.5.2022

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プロポーズの終着駅

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「あゝ結婚」、というソフィア・ローレン女史主演の映画があった。
私が生まれる前の映画であり、鑑賞したこともないが、動画で予告編をおさらいしてみた。
結婚後のてんやわんや喜劇であると長年思い込んでいたが、実際のストーリーはどちらかというと複雑なものであった。

この国においては、プロポーズを受けてから結婚に漕ぎつけるまでの期間が長い。
漕ぎつける前に破局する例も少なくはなく、あるいは、婚約したまま結婚をせずに一生寄り添い続けるというようなカップルもいる。

私は往々にして、諸々の勧誘を断ることが苦手なのではあるが、プロポーズを断ることはさらに苦手である。

 

プロポーズをして下さる男性は、みな、ロマンチックなシチュエーションを演出し、真摯な表情にてプロポーズをして下さる。
それを拒絶するということは非常に酷なことに感じらるので、勇気に欠けていた私は、首を縦に振ってしまっていた。

 

そして、そのまま具体的なアクションからは話を逸らしながら、時期を延ばし延ばしにしてきた。
すなわち、「煮え切らない輩」と称されるような種類の人間を演じて来たのだ。そのため求婚者たちは愛想を尽かし、去って行った。

 

しかし今回は、

とうとう腹を括った。

 

すなわち、再婚をする決断をした、ということである。

欧州の最近の気候の傾向として、猛暑の晴天が数日間続いたあと大雨が降る。
今朝は、ほぼ不穏な雰囲気を醸し出すほどの曇り空が、ストックホルムを暗く覆っていた。

 

考えてみれば、人生も、この変化の激しい気候の如く、浮き沈みしている。
一路順風にものごとが運んでいる日もあれば、どんよりとした暗黒の空のように、不安かつ、無性に寂しくなる日もある。
そのような時は、一人で過ごすよりは、誰かが一緒に寄り添ってくれる方が有難い、

などと、センチメンタルな雰囲気にて結婚に踏み切ることが出来れば正当であり、ロマンチックである。

しかし、「花より団子」の無骨な私の場合は、未だそのような心境には達することが出来ない。

 

再婚をする理由は一重に、日本への帰国を可能にするための決断である。

私には苦手なものが山ほどあるが、その中でも重度なものの一つが飛行である。
フットワークが軽いと誤解される時もあるが、私は、飛行機を利用した旅の場合、大概一人では飛行をしない。

パンデミックのためフライトをキャンセルをされた2020年の日本行きは、一人の若い男性と一緒に飛ぶことにしていた。

 

その直前にプロポーズをしてくれた青年である。

 

2022年、今年こそ帰国を叶える、と意気込んでみた。
しかし、日本側の入国規制に依ると、私が日本に連れて行けるのは、正式に籍を入れた配偶者のみである。
自分の子供でさえ連れて行くことが出来ない。

 

という事情で、その青年のプロポーズを受け、彼を配偶者として受け入れることにしたのだ。
プロポーズの有効期限は、さいわいまだ切れていなかった。

 

ところで、結婚とはどのようにするものなのか。

 

初婚は日本にて登録し、こちらでは簡易書類を提出しただけであると記憶している。
あるいは馴れ初め等に関するインタビューを受けたかもしれないが、二十年前のことであるため、記憶が定かではない

 

しかし、現在はデジタル化が非常に進んだ2022年である。
そのため、今回は書類を提出するだけで十分であろう、と高を括っていた。

 

しかし、認識は全く甘かった。

 

まずは、お互いに結婚をしていないという証明書を頂くために、二週間以上を費やした。
その後、その証明書を提示して、簡易結婚式所を予約しなければならない。

 

簡易結婚式所としては、ストックホルムではノーベル賞授賞式晩餐会の開催される市庁舎が人気であるが、11月の末まで空きがないため、帰国日までには間に合わない。

 

ドロップ・イン結婚式場というものも見つかったので、片っ端から電話をしてみたが、空きはなかった。
いずれにせよ、現段階では大勢を招待する宴会を計画している時間はない。
帰国予定日が迫っているため、早急に籍を入れることが最優先である。

 

結婚執行人と直接談判をするという方法もあるが、その場合も式を執行する場所は自分で見つけなければならなく、結婚執行人の一人一人にメール連絡をし、都合を伺わなければならない点も時間を要する。
さらに、結婚執行人とは大抵の場合、政治家であるため、秋の選挙までは多忙であり、それどころではないであろうと想像される。

 

それならば教会はどうだ、と教会を当たり始めようと思ったが、私はクリスチャンではないため、その点が問題になりつつある。

 

ストックホルム以外の町はどうだ、と近郊の町の市庁舎を探し始めたら、さいわい、隣町の市庁舎に空きがあった。
その日の担当の執行人に関して、ネット検索をしてみたら、以前にスキャンダルを起こした政治家であることが判明した。

 

あまりに何もかも上手く行かないもので、お互い不機嫌になり、口論も多くなって来た。
結婚手続きが面倒で婚約解消をする人たちはいるのであろうか。あり得ることであろう。

 

ソフィア・ローレンの映画ではないが、「あゝ結婚」というフレーズが脳裏を反芻する。私の場合は、

「あゝ結婚、面倒くさい」、であるが。

 

こんなことを綴っていると、夢見心地にて結婚を考慮をされている方々には不愉快に感じられるかもしれないが、面倒なのは、あくまで書類と手続きの煩雑さである。

 

それでも、プロポーズをしてくれた青年は、「煮え切らない輩」の私がついに決断をしたため、歓喜して家族には連絡したらしい、彼の家族からは早速、お祝いのメッセージが届いた。

 

くだんの青年は躾が良く、世の中の負の部分には目を背けていたいタイプの若い青年である。
世の中の負の部分から目を背けられ得ず、何かと複雑な状況に立たされることの多い私を、この若い青年はどこまで支えて行くことが出来るのであろうか、ということがプロポーズ当初の疑問であった。

 

しかし、人間の強さと思いやりの深さは、年齢になど関わらず、一見では理解し得ない。
病弱でもある年上の私と結婚して一緒に暮らしてゆくということは、彼にとっても相当の覚悟を要したことであるに違いない。

 

私が緊急病院に行く羽目になった時などは、たとえそれが夜中で、帰りの電車が無くなると知っていても、隣町から飛んで来てくれた。

 

信頼をしてみるべきであろうか。

 

この際、「あゝ結婚、面倒くさい」、はこのように変更してみようか。

 

「あゝ結婚、面倒くさいけど、二回ぐらいしても悪くはない」

スウェーデンの国境を越えた日々

7.11.2022

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スウェーデンの国境を越えた日々

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先週末は夏至祭であった。 

昨年は知人の別荘に招待を頂いた。 

今年も知人の別荘に招待を頂いた。 

夏至祭の日はたいてい、にわか雨に見舞われる。

しかし、今年は雲一つない晴天の夏日であり、近所の湖畔では水着あるいは露出度の多い服にかろうじて身を包んだ人たちが横たわり、あるいは、夏至祭の食事を愉しんでいた。

しかし、2018年まで、私はスウェーデンにて夏至祭を過ごすということが久しくなかった。

六月は日本に過ごすことにしていたからである。

今年の五月、ほぼ二年半ぶりにスウェーデンを出国した。 

最初の越境は電車にて成就し、二回目の越境はレンタルカーにて橋を渡り、三回目はついに空路に依り、国境をいくつか越えた。 

いずれの場合も国境を越えた瞬間は、感慨深かった。 

しかし、越境を重ねるたびにその感動は次第に薄れて行った。

一年に何回か越境をしていた日常が戻って来た、ということであろうか。 

越境が難しかった時期、毎日毎日ストックホルムにて、ほぼ同じ場所を散歩していた。 

そのような生活に不満が無かったと言えば嘘になるが、人間と言うものは慣れてしまう動物であるようで、無理なのだ、と諭されれば諦めるのも早い。

少なくとも自分の場合はそうであった。

もう以前のように海外に出掛けられるとは思えなくなっていた。

外国への入国規制がかなり緩和されていたことを認識したのもまわりの人たちと比較して遅かった。

 

その反動であるのか、今年は、五月から夏至祭の先週末に掛けて、二か月の間に既に三回も出国をしている。

パンデミック前でさえこれほどの頻度で海外旅行をしたことはなかった。

やはり、遠くに行きたいという願望があったことは否めない。

三回続けて海外旅行をしたのだから、いい加減満腹になったでしょう、と訊ねられたとしたら、おそらく返答に困窮する。

世界の現時勢を鑑みると、いつまた不自由を強いられる日々が訪れるか予測が出来ない。

それまでに出来ることをやっておきたい、観れるものを観て置きたい、感動出来ることに感動しておきたい、今は、そのような焦燥感に駆られている。

 

三回目の旅行の目的地は、欧州でも観光客数においては一二を争う大都会であった。

大都会であるため刺激にも富み、街は観光客で溢れ、レストラン・カフェは流行り、デパートに並ぶ品物も目眩がするほど豊富である。

中欧の太陽は燦燦と照りつけ、脚が棒になるまで歩き続け、歩いても歩いても町の全容は見えてはこない。

町中に地下鉄が張り巡らされており、これも複雑に入り乱れている。

巨大な町である。

多くの若者は刺激とチャンスを求めてこの国に一時でも住み着く。

 

もしも、スウェーデンではなくこの国に移住していたならば、私の人生は今頃、果してどのようであったのであろうか、と現実味のないことを考えてみる。

私の住むストックホルムは、一国の首都にありながらにして把握できないほど大きい都市ではない。

カフェもレストランもそこそこ存在するがこの大都市の比ではなく、地下鉄の路線も理路整然としており、頭をぶつけてしまいそうなほど天井が低くなっている駅もない。

スウェーデンは面積的には小国ではないが、何せ人口が少ない。

北欧の中では最多数であるが。

それでもパンデミックが蔓延していた時期には、ロックダウン一意の傾向にあった世界において、スウェーデンはロックダウンをしないという選択を主張し物議を醸した。

この選択は激しい賛否両論を呼び起こし、その解答は未だに出ていないが、パンデミック期間には規制の少ないスウェーデンを訪れることを希望している人も多かったはずである。

先日訪れた大都市の喧騒、多くの人々が燃焼していたエネルギー、色とりどりの品物、これらは帰国後二週間を経た今でも時々脳裏を反芻する。

あの町にて観光客としてやっていないことは、まだまだ沢山あるであろう。

また近いうちに再び大都会のエネルギーを肌で感じてみたい。

 

ストックホルムに戻り、自分のマンションにて静かに執筆していると、開け放しのテラスから聞こえて来るものは、時折り流れて来る赤子の泣き声と、カモメの鳴き声のみである。

それがなくなると再び静寂が辺りを包む。

大都市特有のサイレンの音なども聞いたことがない。

大都会から帰国した日の夕刻、機体が雲中から抜け出た時、地上には森と湖の広がる幻想的な土地が広がっていた。

まわりの乗客からはひっきりなしにシャッターを切る音が響いていた。 

二年半ぶりに上空から臨んだストックホルムであった。

この美しい土地が私自身の暮らす土地であることを再認識した時、まわりから響くシャッターの音が心地よく感じられていた。

 

海外旅行に出掛けて刺激を受けることは非常に楽しい。

しかし、たとえ刺激には欠如していても、それほど緊張感を感じることもなく、東西南北どちらへ散歩しても水景のある澄んだ空気の中にて暮らせる、という恩恵も得難く有難い。

先週、この町にもとうとう夏が訪れた。 

短くも美しい北欧の夏だ。

千篇一律かつ平和な日々から胡坐を解く時

5.5.2022

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千篇一律かつ平和な日々から胡坐を解く時

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戦争時代の文学を好んで読んでいた時期があった。

戦いを好んでいたわけではない。

戦禍における人間同士の助け合い、命の尊さの再認識、その状況にも負けずに生きていた人たちの逞しさ、戦地から生還して来た兵たちとその家族の喜び、九死に一生を得て来た人達の懸命な生き方。
その一つに一つ垣間見られる人間ドラマを好んでいた。

 

この時分は、自身が戦争に巻き込まれてゆく可能性があるとは思っていなかったため、あくまで傍観者としての戦争時代の文学であった。

 

大人になってから私はヨーロッパに移住をした。
地震もなく、内戦もなく、自然災害も少なく、治安も悪くない。
社会福祉制度も比較的先導している。

 

私の移り住んだこの国は、概ねそのような国であった。

 

確かに、最近までの状況はそうであった。
未だに内戦はない。
しかし、現在はどの新聞を斜め読みしてみても、この国が外部からの危機に脅かされていることは否めない。

 

長い人生の節々にて、様々な国にて数年づつ暮らしてみた。
この国はその中でも比較的安全であった。
コーヒータイムの際に盛り上がる話題も、私にとってはほぼ退屈と呼べるほど千篇一律に感じられるものが多かった。
しかし今、その時期を振り返ってみると、それが平和という現象であったことを再認識させられる。
その安全であったはずの国にて、現在コーヒータイムで盛り上がる話題は、シェルターの場所、規模、充実度。
さらに、各家庭ではどのようなものを買置きしてあるか、等の話題である。

 

しかし核兵器の話題になると皆首を横に振る、その話題をそれ以上展開することが不可能になるからである。

 

田舎に別荘を所有する人たちの一部は、いざという時は田舎に避難しようと計画しているようであるが、最近は、田舎の方が安全である先入観も覆されつつある。

 

どなたかが、日本は長い間平和のうえで胡坐をかいていた、と仰っていらした。
私がこの国の言葉を学んでいた時、クラスメートのほとんどは戦難を逃れるためにこの国に渡って来た人々であった。
爆撃音で聴力を失った若い人とも知り合った。

 

彼らは一様に日本が好きで、平和な日本に憧れていた。
私自身も、長い年月、平和の上で胡坐をかいていた。
自分が戦難に遭う可能性など考えたこともなかった。

 

しかし、今は身の振り方を考え始めている。

 

世界の安全都市インデックスに依ると、ここ最近は、どの資料を選んでも首都の安全度は東京が世界一となっている。

 

おそらく現在の状況においては日本に帰国するという選択肢が最善かもしれない。
パンデミックの時代を通して日本に居ながらにして遠隔勤務を行うことも可能である。
勤務先が存続していたらの場合であるが。

 

しかし、現時点では、日本に帰国を許可されているのは私だけである。
パンデミックの入国規制に依り、家族は未だに日本に入国出来ない。
そのため私も帰国するわけにはいかない。
家族の居るところが自分の居場所なのであるから。

 

と、この土地のもろものの緊迫した状況を綴らせては頂いたが、窓から外の世界を臨いてみると、街は普段通りに機能している。
乳母車を押している男性、犬の散歩をする年配の男性、スーツを着こなして職場に向かう人達、自転車を飛ばしてゆく人々、バスに急ぐ人々。
スーパーマーケットに買い物に行っても、保存食は品薄にはなっているが、それ以外には特に不便はしていない。
レストランも通常に開店しており、人気のあるレストランは常に満席になっている。
太陽の光を受けて輝くバルト海のほとりは散歩をする人たちの散歩道になっている。
これらは、記憶の底に残っていた2019年の光景とさほど変わらない。
違いと言えば、往来でマスクをしている人々の姿がちらほら見られるという点であろうか。


2020年には、日本の東北地方を初めて訪れる予定を立てていた。それがまったく予期しないことのために変更せざるを得なくなった。さらに、その二年後の現在、まったく想像不可能であった奇妙な状況に置かれている。
昨晩は非常用ラジオを物色していた。
そのようなものを購入する予定などは2020年には皆無であった。


遠くに聳える高層マンションの窓に写る太陽の光を眺める時、冬の長いこの街にも春が訪れていることを実感する。
桜の花も満開になっている。
日没時間も徐々に遅くなってきている。
昨日の日没は20時30分であった。


「このまま、日照時間が長い日々とともに平和が訪れてくれれば良い」


と、戦難に遭った人々も切望していたはずである。
そして、彼らのその想いは惜しくも叶わなかった。


現在、一寸先のまったく予想できない状態が続いている。 
今出来ることは、毎日をひたすら大切に生きて行くことである。

スウェーデンへの移住は学校から始まった

4.5.2022

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スウェーデンへの移住は学校から始まった

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スウェーデンは比較的住みやすい国である。 
現在はそのことを理解しているが、移住当初は英語圏に移住しなかったことを悔やんだことも多々ある。 

 

日本においては語学屋であった私は、海外に移住しても語学で苦労をすることは無かろうと高を括っていた。

言語的に少数民族の国であれば話は異なって来るが、スウェーデンはヨーロッパの一国であり、教育水準も高度である。
そのため、移住してから即座に、何かしらのオフィスワークにはありつけると楽観的に構えていた。
しかし、その「即座」が数か月に亘って来た時は、焦燥を感じ始めた。

スウェーデンに移住して、私が最初に根を下ろしたのは某地方の町であった。  
その町で私は、カルチャースクールにて、常勤の英語の先生が都合が悪い時に、代役として教鞭を執ったりしていたこともある。
しかし、それは一週間に一回のコース、その代役である。
フルタイムの就業形態からは程遠い。 
職業安定所にも登録してみたところ、提案された職種は飲食業であった。
そして、どこへ行っても同じ質問を受けた。

「スウェーデン語は話せるの?」
「少しは話せますけど」

とたどたどしく返答しても、話にならないと出口を指さされる。

 

そのようなことを繰り返していた最中、知り合いから提案を受けた。

「本格的にスウェーデン語の勉強をしたら?この街でも無料のスウェーデン語コースが開催されているよ」

移住した直後にフルタイムで働く予定であった私の将来的展望は、ここで大幅に軌道修正することになった。
このあと何年も勉強をする羽目になったからである。

私は、地元の小学校の一室で開催されていた「移民のためのスウェーデン語コース」というものを履修することにした。
そのクラスは、私と一人の英国人女性以外は、南欧と中近東出身の生徒たちで構成されていた。

クラスメートたちと過ごす日々は和気藹々としてそれなりに楽しかった。
私も含めて皆、ド貧であったが、若かった。 
放課後にはクラブ室に集まり、遠足に連れて行って頂いたり、一緒にピザを作ってディナーをしたことなどもある。

その町には、日本人は私の他にはいなかった。
ストックホルム、ヨーテボリ、マルメ等の都市では日本人でもバリバリと働いていらっしゃる方々が存在していたことは、当時の私には知る由もなく、その町と学校生活の中で、私の日々は静かに悠々と過ぎて行った。

放課後には、当時の配偶者の車を借りて街外れの湖畔に出掛けていたこともある。 
湖畔のベンチに佇んで沈みゆく夕陽を眺めて居たら後悔の念が強く押し寄せて来る。
その町には日本米を購入出来る店さえも無かった。

「私は一生この町で、外国人として暮らしてゆくのであろうか」

 

日本においては、語学屋としてそれなりに尊敬も受け、定収入もあった。ほぼ毎金曜日には友人たちと東京で落ち合い、新しいレストランを物色していた。

日本の都会の喧騒が懐かしかった。

 

最近は、スウェーデンの田舎町から日常を綴られていらっしゃる日本の方々のブログ等を見掛けることもある。
往々として彼らは逞しく前向きに生きていらっしゃる。

しかし、当時の私は、静かすぎる町の生活を享受出来るようになるには若すぎた。 
静かすぎるとは形容しても、クラブ、ディスコ等が存在していなかったわけではない。
しかし、クラブ、ディスコ等に出掛けても、スウェーデン人の輪の中に入ることは至難の業であった。 
地方、田舎の傾向に違わず、余所者は受け入れてもらえるまで時間が掛かる。
さらに、スウェーデン語が流暢に話せるようになるまで私は英語で話していたため、英語を話すことを不得手とする田舎の保守的なスウェーデン人達には荷が重かったようである。

 

クラスメートの中には、内戦のために国から避難して来た人々も少なからずいた。
彼らは表面上は明るく振舞っていたが、ふとした瞬間に、戦敵への憎しみが垣間見えることがあった。 
そのような時は、普段剽軽で優しいクラスメートがあたかも別人のように感じられた。
彼らの憎しみは非常に根強いものである。

憎しみの矛先には憎しみしかないことを実感した一年間であった。
これは現在進行形になりつつあるのであろうか。  

 

日本にて会社勤めをしていたごく平均的日本人であった私は、社会人になったあとに再び学校の門をくぐる羽目になった。
そして、日本で暮らしていればニュースのみに依ってしか知り得なかった戦争難民の人々と机を並べて勉強をする。

この世界が、私がスウェーデンに移住をしてから最初に体験したものであった。

スウェーデン語の学習はこの一年のみで終わらず、スウェーデンに関しては、この後数年間も学校に通い相当の努力をすることになる。
言語というものは熱い情熱を注いで学習しない限り上達しないものらしい。

スウェーデン語初心者コースの一年目を終了した時、私達はストックホルムにて新しい生活を開始した。

 

 

北欧就職 振り出しに戻って

3.6.2022

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北欧就職 振り出しに戻って

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海外移住、海外就職、国際結婚。

なんと甘く輝かしい響きの言葉であろうか、と学生時代には考えていた。

私が憧れていたのは米国であり、大人になったら米国に移住するのであろう、と漠然と考えていた。

しかし、人生とは予定していた航路通りに運ぶものではなく、英語を好み、得意としていた私は第三言語を話す国へ移住した。

就業においても、その国の言語を話すことを条件とされていた国である。

英語が社用語となっている企業もあったが、それは、なんらかの特殊技能を有している場合であり、私のように、もと英日通訳ではなんの潰しも効かなかった。

それでも生活のために何かをしなければいけないとなったら、この国にて最初に比較的職を求めやすい場所と言えばレストラン業界であった。

従って、私もその例に違わず、レストランにてアルバイトを求めた。

適材適所とは良く言われたもので、レストランという場所は機敏な性質の人でなければ、給仕する人、される人、両方が難儀をする場所らしい。

「機敏」という性質は私の性格からはかけ離れたものである。

厳寒の日に客のコートにお冷を溢してしまったり、注文を間違えたりしながら、繁忙期の一週間を乗り越えた。

昼だけのバイトではあったが、一週間で三千円相当ほどの、北欧においての初任給を戴いた。

その前に最後にレストランでアルバイトをしたのは何時であったのであろうか。

おそらく十六の時であっただろう。

最寄り駅前のカフェである。

まだ二十歳を過ぎてそれほど年月も経っていなかったので、当時はそれほど悲観していたわけではないが。

しかし、例えば二十年間を経た現在もレストランで給仕をしていたとしたら、非常に複雑な心境になっていたであろう。

私は日本において、通訳として、その金額なら一時間で稼ぐことが出来ていた。

レストラン業界において、経営者になるという場合はまた状況が異なってくる。

レストランでもカフェでも、自らの裁量に依って切り盛りできる経営は大変遣り甲斐があるはずである。

もし、私がレストラン経営に関わることを希望していたのであれば、修行の一環として、最初は給仕の業務に専念していたであろう。

しかし、私は機敏な性格でもなく、専門は語学屋であり、出来ればその専門を生かして行きたかった。

従って、私にとって、レストラン業界における仕事は腰掛けの域を超えなかった。

こちらに移住して来たばかりの頃、レストランにて給仕をしていた日本人は、知る限りでは私の他に二人いる。

おそらく他にも多くいるであろう。

その二人がどのような航路を辿って行ったかを、こちらで紹介させて頂こう。


一人目の知人の場合はどうであろうか。

彼女はレストラン業界にて活躍するために生まれて来たような方であった。

レストランで仕事をされていらっしゃる時は、つねに満面の笑みにて客と接し、機敏な動きと機転の速さにてどこのレストランにおいても即座に重宝される人材となっていた。

将来的には、ストックホルムのいずれかのレストランの共同経営者になることも考慮し、何件かを物色し始めていた。

しかし、結婚相手と離縁をしたあとは、彼女の人生航路は変更を余儀なくさせられた。

お菓子作りが非常に得意であった彼女は、北欧カフェを開く、という大志を抱いて日本へ帰国した。

しかし、日本に戻って周りを見回したら、彼女が理想に描いていたようなカフェは既に、いたるところに存在していた。

彼女がレストラン・カフェ業界をあとにしたのはその直後であった。


二人目は、結婚はしていなかったが、ボーイフレンドに誘われてこの国へ移住した。

彼女にとってもレストランにおけるアルバイトは一時的なものであり、リクルートフェア等には積極に出掛け、フルタイムのデスクワークを求めていた。

ボーイフレンドと別れてから彼女の採った航路はまわりを驚嘆させた。

日本人形のように華奢で儚く可憐に見えた彼女は、国際支援団体に連結してアフリカへ赴いた。

以前は激しい内戦が繰り広げられていた国であった。

その国に数年ほど滞在したあと、博士号を取得するために英国に渡った。


そして、この私は、この二人がこの国を去ったあと、何年間も残り続け、一介のサラリーマンとなった。

同じ時期に、長短に拘わらず、同じレストランで働いた私達は、それぞれみな各々の航路へと旅立って行った。

今でも時々、そのレストランの前を通ることがある。

当時の経営者からは既に何代も替わって来ているのであろう。

しかし、その前を通ると、こちらに移住した頃のことを、甘さと苦さが交錯したような心情とともに想起する。

当時は、レストランにおけるアルバイトからの先、私にとってどのような未来が拡がっているのか想像もし得なかった。

サラリーマンという身分が私の終着港であるかはまだわからない。

しかしある程度の経済的安定は獲得することが出来た。

 

奇妙なことであるが、最近になってレストラン経営に携わってみたい、などと考えることがある。

腰掛けであったはずのレストラン業における業務が、憧れとさえ感じられる境地になって来た。

人間の価値観とは変化してゆくものである。


海外生活を腰掛の仕事にて始めた同胞たち、もし彼女たちが未だに中途の駅で足踏みしているのであれば、伝えたい言葉がある。

 

目的は最後まで見失わないでね、と。

完璧な保険屋さんの掌(てのひら)にて

2.5.2022

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

完璧な保険屋さんの掌(てのひら)にて

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昨年までの十年間は、病気欠勤したことは皆無であった。
健康上において警戒すべきものは、パンデミックのみだと思っていた。

 

昨年の年始は仕事に忙殺されていた。
毎晩22時まで机に座ってコードと、睨み合っていた。

それは週末も同様であった。
私は同僚と比較してまだ若く健康である、との自負が私にさらなる無理を強いていた。

朝日の美しいある春の朝、ついに倒れた。
そして、倒れたら、どのようなことが起こったのか。
私が加入している健康保険の会社が連絡をして来たのだ。
それ以降、私のカレンダーはアポでギッシリと詰まった。

アポというのはそれはデート等の華やかなものではない。
筋肉の引き締まった男性に会っていたことは会っていたのであるが 特に心浮き立つ出会いというわけでもない。


すなわち、月曜日のアポは、筋肉の引き締まった男性の理学療法士の施術。
その方はそろそろ年金退職をされる年齢であっただろうか。
そのような職業に就いていらっしゃるかたは、いろいろな患者と話をしているため、話題も豊富で楽しかった。
その男性が、私が痛めた肩甲骨をほぐそうとしている間は落ち着ける一時であった。

火曜日のアポは、他の理学療法士とのビデオ対話。
彼女は、開口一番、このように尋問する。

「前回、一緒にトレーニングした呼吸法、もちろん、何回も練習したでしょう?」

「当然です」、とは返答できなかった。
まったく練習していない、それどころか、すっかり失念していた。
さらに、私はその理学療法士の名前さえ憶えていなかった。
「それでは反復しますよ」、と彼女が始めたのは呼吸法であった。
「はい、それではベッドに横になって、ゆっくりと息を吐いて。温かい熱が下から上って来る感覚がわかるでしょう?」、と画面の向こうで指示している彼女の声が徐々に遠のいてゆく。
そのまま熟睡してしまった。

水曜日のアポは、自宅の就業環境スペシャリストとのビデオ対話。
ビデオ電話にて、室内を見せなければいけないため、大掃除をしなければいけなかった。
とりあえず見えるところだけ掃除をして、スペシャリストとの会話に臨む。
彼女はひとしきり私の部屋の就業環境を点検すると、チェックリストを作っていた。

- 高さの調節できる机。

- 27インチのコンピューターモニター。

- エルゴノミックなキーボード。

- エルゴノミックな椅子。

「勧めて下さった伸縮自在の机に関してですが、私の小さい部屋には80センチx120センチの机を置く場所はないです」
「それじゃあ、他のタイプを探してみてね。最近は倒産している企業も多いから、そのようなところから机を購入するという可能性もあるわよ」
「それはどうやって探すんですか?大体、オフィスの机ならば80センチx120センチよりもさらに大きいのではないですか?」
「オフィスが多い地区で検索してみて。そうね、かなり大きいかもしれないわね」

木曜日のアポは、私の就業中の姿勢を点検するスペシャリストとのビデオ対話。
「家の中にクッションか何かあるかしら?」
私は居間からクッションを二枚持ってくる。
「それをお尻の下に敷いてみて。それで腕の高さとキーボードの高さのバランスがとれるかしら、椅子をもっと前に引いてみてくれる?」
「椅子の脚が机にぶつかるので無理です」
「それではクッションをもう一枚持って来て背中に当ててくれる?」
指示の通り、クッションを背中とお尻の下に置いて数時間PCで作業をして立ち上がった時、しばらく極度の腰痛に苦しんだ。

 

木曜日のアポは、針鍼灸専門の理学療法士を訪問。
この方とは数回お会いしたが、毎回健康面に関する雑談に終わり、結局、針鍼灸の施術は一度も行われなかった。

金曜日のアポは、他の鍼専門の理学療法士との対面であった。
その診療所はかなり遠方であったため、訪問するためにほぼ半日掛かったため、結局こちらからお断りさせて頂いた。
そもそも何故、二人の異なる鍼灸専門師にアポが入れられていたのかも疑問であった。

その女性は開口一番、このように訊ねた。

「ようこそ、ところで貴方はどなたの紹介でいらしたの?」

私は、「わかりません」と返答するしかなかった。

医者あるいは理学療法士への招待状は、機関によっては郵便ポストにて送られる。
ある時はメール、ある時は携帯電話のアプリ、またある時は携帯メッセージ、ついにはどこの紹介であるかもわからなくなっていた。
健康保険の中にも管轄しているところが何種類かあり、そのうえ、ホームドクターからも招待状が送られていたようで、これらを私がすべて管理するための秘書が必要なほどであった。

 


理学療法士の方々が私に課していたことは多かった。

「先週、教えた呼吸法、覚えているわね?」

「PCスクリーンの位置を変更するように言ったでしょう?」

「伸縮自在な机、まだ会社に購入してもらっていないの?」

「PCで作業している時は20分ごとに20メートル先にあるものを20秒見るようにしてる?」

「このストレッチ運動を一回、20分づつやってるかい?」

エトセトラ・エトセトラ・エトセトラ

 

そもそも、これらの指示をすべて行使していたら、働く時間はどのように確保するのであろうか。

然り、昼間は働く時間が確保出来なかったため、私は自ずと夜間に働く羽目になっていた。


さらに、これほど毎日予定が入っていると、どのような弊害があるのであろうか?

ダブル・ブッキングである。

一度、理学療法士のところを訪問している時に、他の理学療法士が、「さあ、セッションの時間ですよ」とビデオ電話をして来た。
その時になって初めて、ダブル・ブッキングになってしまったことに気が付いた。
ビデオ電話で予約をしたほうにはひたすら謝罪をする羽目になった。

また、あまりに予約が多く、一度、訪問の予定を完全に失念していたことがある。
こちらでは、予約時間の24時間前に連絡をせずに姿を現さなかった場合は、5千円相当の罰金が課される。
不本意の出費であった。
過度のストレスのため倒れ、健康保険に助けを請いた結果、結局、ストレスレベルがさらにエスカレートしたという羽目になった。
本末転倒である。
通常に生きてゆくために、就業するために、これほどの設備を整え、食生活を改善し、就業する態勢を改善し、トレーニングをしなければならないのであろうか。

数か月、このフルブッキングの生活を継続したが、リハビリトレーニングはほとんど行使することなく、呼吸法に関しても何も覚えてはいない。
何度も催促された新しい机も購入していない、私の部屋に合うものが見つからなかった。

それでは、果たして、この数か月の対話の時間は無駄であったのであろうか?

パンデミック期間には、パンデミック患者のみにあらず、普段とは異なる生活習慣に起因して体調を崩す人は後を絶たず、それも医療財政を圧迫している、と聞く。
そのような切羽詰まった時勢に、私たった一人のために、十名近くの医療従事者が数か月間も真摯に向き合ってくれていた。
結果はどうであれ、これほど至れり尽くせりの健康保険を提供して下さったことには感嘆しかない。

 


決して模範的な患者ではなかったが、あれほど多くの方々と対話をしたことは決して無駄ではなかったのであろう。
私の生活習慣は昨年の今頃と比較すると多少は改善されている。
何よりも食生活はかなり変化した。
以前は、鳥の餌のような穀物を主食としていた人たちを横目で眺めていたけれど、現在は、その鳥の餌を食している自分が居る。

しかし、何よりも今は、以前のように健康を過信することは止めた。
如何に若くとも、病歴がなくとも、無理を長期間続けているとやがて身体が悲鳴を上げる。
そして一度失われた健康はもとに戻せるとは限らない、ということを若い方々にも再認識して頂きたい。

とにかく今の私は、当分は保険屋さんのお世話になることのないように心掛けている。

早めに就寝するはずだったあの晩

12.5.2021

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バルト海をヒールで闊歩して

早めに就寝するはずだったあの晩

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ある週のこと、体調はすこぶる優れず、仕事もあまり捗らず、せめて日曜日の夜は早めに就寝しようと決心していた。


夕方、前触れもなく、携帯メッセージが鳴った。

「今晩、このコンサートに一緒に行かない?ゲストのチケット(枠)があるんで」

誘いのメッセージは、暫くご無沙汰になっていたミュージシャンの友人からのものであった。

 

ゲストチケットは「ただよー」、ということなのでお礼に花でも持っていくべきかと訊いたら、

「花なんかいらんしー(爆笑絵文字)、なんもいらんよ」、と返答された。

コンサートあるいはギグに関する私の理解はこの程度であった。

 

早めに就寝するはずであった決心は一瞬のうちに覆された。

私はベッドから飛び起き、青白かった顔にベタベタと色を付け始めた。

なかなか会う機会がなく残念だと思っていた友人から、ようやく連絡を頂いた。

断わってしまったら、いつ再会出来るかわからない。

 

久々に拝んだ彼女の表情は明るかった。

彼女自身もミュージシャンなのであるが、外国で女手一人で音楽で身を立てるのはそうそう容易な事ではない。

頻繁に会っていた頃の彼女の表情には、どことなく陰があるように感じられていた。

   

前回、彼女にコンサートに誘われた時は、教会のチャリティーコンサートであった。

ふと気が付いたら、私達は、大きなIKEAの袋に全財産を持ち歩くホームレスの人たちに囲まれて座っていた。

そのコンサートはホームレスの人たちを救済するためのチャリティーコンサートであった。

 

彼女は、いつも前触れなしに、私を非日常に巻き込んでくれていた。

 

その晩のコンサートは、カナダ人のアレックス・ヘンリー・フォスター氏の率いるバンドのコンサートであった。

彼女は彼と、ミュージシャン同士のメディアで知り合ったらしい。

 

指定席などがあるコンサートホールだと思いこんでいたので、多少ドレスアップして出掛けた。

会場に入って驚いた。

立ち見であった。
前回訪れたコンサートはFrank Zappa氏の息子、Dweezil Zappa氏のコンサートであり、その時には指定席があった、会場も観客の数も大規模であったが。

本来なら父親の方のコンサートにも行きたかったのだが、生まれてくる時代を間違えた。


コンサートは盛り上がっていた。

周りを見回したら、誰もかしこも頷くように、リズムに沿って首を前後に振っている。

老若男女が混じり合っていた。

私もそのように陶酔してみたらストレス発散にもなるかと考えたが、始めて聞いた音楽なのでそれほど感情移入も出来ず、しかも片頭痛も残っており、頭を振ったらあまりよろしくないので、もっぱら振り振りの観客を見て楽しむ側にまわった。

 

私達は、昭和後期の平均的日本人女性の身長であるが、長身スウェーデン人男性達の後ろに立ったら何も見えなくなってしまうので一番前のスピーカーの横に立っていた。

そのうち、あることが心配になった。

ここに数時間立って居たら聴覚に支障をきたすのではないか?

音量が尋常ではない。

しかし、心臓に響くような音響に囲まれるのがコンサートの醍醐味なのであろう、と自分を納得させようと思っていたが、ふと周りを見てみたら、半数以上の人は耳栓を使用していた。

コンサートを聴きに来て耳栓とはどのようなモラルなのだ、と疑問したが、コンサートやギグで耳栓を使用することはかなり常識らしいことを後から知った。

そのことを知らなかったため、しばらく耳栓無しで堪えていたが、そのうちかなりつらくなってきた。

すると友人がティッシュペーパーを一枚くれた。

丸めて耳に詰めろと言う。

勉強嫌い、音楽一本、というタイプの彼女と、ガリ勉タイプで特技も無い私では、共通の話題は、ほぼ皆無である。しかし、私達の付き合いは長い。

彼女は器用なので、化粧品も髪の染粉等も全て自分で作っている。

彼女の食事は全てエコロジー食で、甘い物が苦手な私の為に甘くない自然食お菓子などを作ってくれたこともある。

話し方に抑揚がなく、傍からは無感情にも思えるのであるが、思いやりとはつねに外見に現れるとは限らない。

「この音楽、なんていうジャンル?デスメタル?」

「よくわからん、違うと思う」

 

あとからチラシを見たら下のように書いてあった。

For Fans of

Post-Rock, Progressive, Nu Gaze, Psych

Nick Cave、 Radiohead、 Sonic Youth、Mogwai、Swans、 Godspeed You! 、Black Emperor、 King Crimson

 

それではPost-Rockとは何かとネットで検索したら

「説明するのが面倒くさいジャンルの音楽」

のような説明を見つけた。

何回か聴いてみたら好きになれるかもしれない。

興味のあるかたはAlex Henry Fosterで検索すれば動画が数点見つかる。

その晩は前座であった彼は、コンサートを終えたあと、私達のところに両腕を広げてやってきた。

ラーメンのように縮れた髪と顔面からは汗が滴り落ちていた。

「We met finally! Nice to see you!」、と友人にハグをした。

その後、友人だと紹介された私にまでついでにハグをくれたので、私の頬までびっしょりに濡れた。

 

次のコンサートも終わりに近づき、ぼちぼち帰って寝るか、と思っていた時のことである。

アレックスが、再び私達のところに来て、私達は休憩室のようなところに通され、バンドのメンバー全員に紹介された。

「Are you a musician as well?」、とバンドのメンバーに質問されたため、

「Well, I write code」、と返答した。

コードはコードでもプログラミングだが嘘ではない。
バンドのメンバーには日本語が流暢に話せる人もいたので、アレックスに日本が好きなのかと訊ねると、

「Oh, it's a long story」、とアレックスはサイン会もそっちのけで語り始めた。

彼の警告に違わず、彼の話は本当に長い話であったのでここでは割愛させて頂く。

彼らは、かなりの親日家で、東北大地震の三週間あとには慰問のために三陸海岸を訪れたこともあるらしい。

被災地の人達にはクリスマスカードを送ったりもしていると聞く。

 「アレックスちゃん、本当にいい子やね、スウェーデンにもあんな子おらんかな」

と友人も感動していた。

彼の年齢はかなり不詳であったので「子」、という表現が妥当であるかどうかは疑問であるが。

この日はなんとも奇妙な一日になった。

朝起きた時は、このような展開は全く想定外であった。

ご無沙汰になっていた彼女と再会出来たことも有意義であったが、世界中をツアーで周っているミュージシャンと知り合い、旧知の友のように扱ってもらった。

友人に、私を何故、誘ってくれたのかと訊ねた。

 「貴方はフットワーク軽いから。

日曜日の夜に、前触れなくコンサート行こうって誘ってみても、大抵は誰も来ないって」

 

私は非常に出不精なもので、フットワークが軽いなどとは、かつて自覚したことも言われたこともないが、誘われたイベントには、先約がない限り、断らないようにしている。

そこでどのような素晴らしい人に会えるのか、未知の世界に遭遇できるかわからない。

あるいは運命を変えるような経験をするかもしれない。

人生というものは、明日、あるいは今晩、どのような出来事が待ち受けているか全く予想できないものであるから継続する意義がある。

一夜にして大富豪になった友人のその後

11.5.2021

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一夜にして大富豪になった友人のその後

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ストックホルムが脆弱な太陽の日差しに包まれたある冬の昼さがり、ストックホルム郊外の森にある小さな木造の教会で知人の葬儀が行われた。

故人は、誠実な夫として、子供達の良き父として、信頼される上司として愛され、静かに逝った。

 
葬儀が終わって最前列の席から教会の外に出ようとした時、後方列の席から腕を強く掴まれた。

予期していなかったことなので驚いて掴んだ腕の主を振り返った。

 

その手の主は、古くからの友人トムであった。

「一体どうしたの?」

泣き腫らしたであろう彼の涙袋は赤みを帯びており、顔には血の気がなかった。
髪はかなり薄くなっており、肌は荒れていた。

彼は切羽詰まった様子でこう言った。

「いつか、僕の話を聞いてくれないか?」

 

トムは15年前ほどにIT企業を設立したのだが、その会社が大手のIT企業に買収され、文字通り、一夜にして大富豪になった友人であった。
私よりも年齢はかなり上であったが、彼の、誰とでも対等に話をする態度が心地よかった。

彼の妻、リサの姿は見えなかった。

「リサは?」

トムは返答する代わりに首を振った。

私は聞き返す代わりに、彼女は病気なのであろうと勝手に解釈した。

彼女が「病気」がちになったのは、彼らが大富豪になってから間もなくのことであると記憶している。

 


大富豪になって間もなく彼らは、親戚一同と私達友人を保養地のホテルに招待して感謝の意を示した。
実に百人以上の招待客であった。


そして二回目の大イベントは、トムがリサの40歳を祝った時であった。

その際にも、百人以上の招待客、仔馬のポニーとそれを引く人、バーテンダーを雇い入れ、大型トランポリンまで借り入れ、大掛かりな誕生会を催した。

ブルーネットでショートヘアの愛くるしい女性リサはなんと幸せな女性だろうと感じた。


「今日の主役登場です!」

と、トムが発表した。

そこでリサが普段着風のワンピースで登場した。

舞台にはブルーネットでショートヘアの愛くるしい女性が立っていた、はずであった。

「あら?」、何か違和感が感じられた。

彼女は相変わらず愛らしかった。

しかし、彼女の顔には憔悴が現れていた。
そしてワンピースの上からは彼女の肋骨が浮き彫りにされていた。

 

その後しばらくして、再びトムに遭った。

リサが最近、滅多に家に居ないため、子供二人の家族生活が尋常に回らないと言う。

非常に裕福な家庭である。

必要があれば家事手伝いをしてくれる人を雇用する経済的余裕もあるはずである。

しかし、トムの意図していたところは、夫と子供達に愛情を注ぐ母としてのリサの存在と役割のことであると理解した。

リサは、一か月間のうち二週間は、地方都市で開催される自己啓発セミナーに出掛けており、そこで合宿をしていたそうだ。

トムの表情は暗かった。


トムもリサも二十歳前後の時に、場所と状況は異なるが、不慮の事故で、非常に大切な人達を亡くしている。
そのためかどうかはわからないが、二人からは底抜けに明るい、という印象は受けられなかった。

失われた命はお金には引き換えられない。

しかし、彼らが大富豪になった時、その喜びで、せめて僅かでも悲しみが軽減されることがあれば良い、と正直なところ望んでいた。

 


リサは長く勤めていた金融関係の企業を去り、かわりに大学で理系プログラムを履修し始めた。

スウェーデンにおいては、40歳を過ぎてから大学に入ると言うことはさほど珍しい事ではないため、私は、特にその理由も気には留めていなかった。

一度、彼女の大学の近くで偶然、出遭った。

彼女は大学のプログラムの履修テンポを落とすと言う。

何故か、と訊ねると、彼女は眉をしかめて神経質そうにこう答えた。

「私の複雑な状況では通常のテンポで履修していくことは難しいから」

 

私の複雑な状況?

私はその一言が不可解で仕方がなかった。


彼女は、私の知っている限りは健康であり、優しくて真面目な夫の庇護を一途に受けている。
二人の可愛い子供も衆知の限りでは素直に育っている。

子供の送迎が大変というのであれば送迎をしてくれる人を雇用する経済的余裕もある。働く必要もない。

「私の複雑な状況」の解答を得ることもなくあれから数年間が経ってしまった。

現在はなおさら訊ねることが出来ない。


「そんなに全てを持っている貴方に一体なんの不満があるというの?」

と疑問してしまうのが人間かもしれないが、傍から見て幸せに思えることと実際に幸せである、ということが比例しない場合は往々にしてある。

   

私はトムとリサが若くてまだ貧乏だったころを思い出した。

彼らはボロボロの汗臭い服を着て、履きくたびれたスニーカーを引きずりながら大きく小汚いバックパックを担ぎ、横浜のアパートに住んでいた私を、日本に訪ねに来た。

貧乏くさかったが二人の仲は睦まじかった。

リサはベランダに出て煙草を吸っていた。

「リサには煙草は出来れば止めて欲しいな」、とトムは心中をそっと吐露した。

しかし、自己啓発セミナーに関しては「止めて欲しい」、とは言えない事情があったのであろう。


さて、その自己啓発セミナーというは非常に高額なものらしい。

もし、彼らが裕福になっていなかったら、セミナーに参加する経済的余裕がなかったのであれば、状況はどうなっていたのであろうか。

そのようなセミナーに参加する代わりに、トムと、あるいは家族で温かく手を取り合って、リサの心の拠り所になることが出来たのであろうか。

  

「僕の話を聞いてくれないか」と教会で腕を掴まれてからしばらくトムからは連絡が無かった。

話というのはおそらくリサのことであると思う。
女の私の方がリサの心情がわかると考えたのかもしれない。

深い知り合いでないほうが話を打ち明けやすい、という心情も何となくわかる。
機内で隣に座り合わせた赤の他人に、知人には打ち明けたこともない話をしてしまうことがある、そのような心情であろうか。

リサの心情なら実は私の方が知りたいほどであるが。

葬儀のあとトムから連絡がなかったのは、おそらくその直後にパンデミック予防のための規制が出たためであろう。


在宅勤務が奨励されていた期間、トムとリサはおそらく子供達と一緒に家族で団欒する時間が増えたのではないかと思った。

家族で過ごす時間が増えたことにより、トムが相談しようとしていたことがおのずと解決していれば良い、と期待をしていた。 


しかし、

「葬儀の時以来だけど、時間あるかな」

ついにトムから連絡があった。

やはり、問題はおそらくまだ解決していないのであろう。
私は重い腰をあげてトムの話を聞きに行くことにした。

私には本当に話を「聞くこと」しか出来ないが。


世の中にはお金では解決出来ないことが多くある。

あたかも古き良き時代の如く

10.5.2021

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バルト海をヒールで闊歩して

あたかも古き良き時代の如く

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朝の光の眩しい日のことであった。
所用があったため、珍しく7時30分前にマンションの外の世界へ出た。

階段を使って一階に降りた時、ちょうどエレベーターから出て来た若い青年と衝突しそうになった。
彼は、短く謝罪の言葉を投げるとマンションの扉から走り出て、道路の反対側に走り向かった。
その彼の姿を遮るかのように、赤色の市バスが私の視界を右から左へ瞬く間に移動した。

青年はバスに乗り遅れそうだったため走っていたのだ。
見覚えのない青年であった。

そのまま通りを歩いていたら、トレンチコートを一糸乱れなく着こなした若い女性が、黒いアタッシュケースを抱え、ハイヒールにて颯爽と闊歩して来る。
この女性もまた通勤途中なのであろう。

途中で、大通りから脇道に入り暫く歩いてゆくと、右手の建物内に人の気配を感じた。
中を覗いてみたら、調理師の白い服を来た若者達が、何人かのグループに分かれて調理台の上にある野菜および肉を切っていた。

その隣の教室では大勢の生徒たちが長テーブルに肩を並べて講義に耳を傾けていた。
大きな講堂というわけではなく、二十名の座椅子を辛うじて擁している程度のセミナー室であった。

その後も歩き続けているとスーツ姿の男女と時々すれ違う。

 

私は湧き上がってくる違和感で叫びだしたくなる衝動を抑えるのに苦労した。

これは、まったく特記する価値もない超日常である。

何故、これがこれほどまでの違和感を呼び起こすのであろうか?

何故なら、これは2021年の日常ではなく、2019年の日常と変わりばえのないものであったからである。

仮に、これが2019年であったのであれば、窓から物珍しそうに中を覗き込むこともなく、無関心に通り過ぎていた光景なのである。

果たして、2020年は一体どこに行ったのであろうか、2021年の春は?

あたかもこの二年間、何事も起きなかったかの如く、往来の人々は自然体で、普段通り、すなわち、パンデミックが勃発するまえの様子で人生を継続している。

 

先週、全く思いがけず、「Welcome back!」で始まる社内メールを受け取った。
すなわち、10月の始めからは、オフィスに戻ってくるように、との勧告メールである。

ついに勧告が出た。ということは、待ちに待ったパンデミックの終焉なのであろうか。

しかし、果たして、同僚達は、あるいは他社の従業員達は、オフィスに戻ることを望んで居るのであろうか。

この点に関しては、2020年には数回アンケートを取った。
その時点では、戻りたい人、引き続き自宅から勤務を継続したい人が半数づつであったと記憶する。
戻りたい、という人の理由は主に、人恋しい、実際に会って話したほうが効率的である、家には小さい子供がいるため集中しにくい等であった。

私の場合、2020年の初夏は自宅から勤務をしていたが、秋に一旦オフィスに戻った。
そして冬に突入する前に再び自宅勤務に戻った。
その次の週に、隣の席にて勤務をしていた同僚がパンデミックに罹患した。
すなわち私は自宅勤務に戻るタイミングが一週間早かったため、パンデミックに罹患する危険を回避できたわけだ。

 

2021年の現在、アンケートを取ってみる。

「貴方はオフィスに戻りたいですか?」

大多数の回答は「否」、である。

自宅で勤務するための基盤が出来てしまったからである。
ペットを飼うことにした同僚達も居る。
オフィスに戻ってしまえばペットの世話が難しくなる。

果たして、私の場合はどうであろうか。

自宅勤務になってからは、夜遅く就寝して、朝遅く起きるというパターンが定着しつつある。
カチリとしたスーツに身を包んでいて、時間に追われていたころと比較すると随分楽である。

しかし、私はオフィスのあるインテリジェンスビルの中でスーツに身を包んだ社員たちが、上下左右に颯爽と移動していた頃の活気が好きであった。
それが、私の夢見ていた海外就職の光景でもあった。
いずれはその世界に戻ることになるのであろう、と漠然と信じていた。
2019年の末に買い込んだ就業用の服の中には袖さえ通していない服も何着かある。

 

私は避難誘導班というものに組み込まれている。

スウェーデンには一般的に地震はないが、火事が発生した場合、オフィスにいる人員を速やかに避難させる誘導員である。

私たち避難誘導員にとっての最大の課題は何であろうか?

緊急時が勃発した場合、身体が不自由な同僚達をどのように安全に非難させるか、ということである。
身体が不自由な人達は通常の場合よりも危険に晒される可能性が高い。

何かしらの不自由を抱えている人にとっては、緊急時の避難のみに限らず、エレベーターの昇降を繰り返して遠方から地下鉄にて通勤する、という行為自体はかなり労力と精神的負担を要することのはずである。

もしも彼らがそれを望むのであれば、彼らには出来るだけ自宅勤務を継続出来る機会を提供してもよいはずである。
私達は、一年以上、自宅からの勤務を継続し、多少不便はあっても、それが可能であることを証明したのであるから。

勤務場所に関しては、合理的に鑑みてみたらこのような方程式になるのではないか。

オフィスで勤務した方が、業務達成率が高く、社会的欲求が満たされ、健康面においても良好な場合はオフィスに戻れば良い。

その逆の場合は自宅勤務を続けていれば良い。
米国の一部では自宅勤務を推奨するところもあると聞く。

 

この日の朝、眩しい朝日の中、暫く歩いてみたが、往来の光景は相変わらず2019年であった。
スーツ姿にて足早に歩く人々、グループになって連れ立つ金髪の学生達、大勢の群れになって先生に引きつられてゆく児童達。

もしかしたら、本当にもしかしたら、あたかも何事も起こらなかったの如く、昔のような日々が戻って来るかもしれない。

 

そのような期待を抱きながら横断歩道に差し掛かった。

一人の女性が、近くの男性に近付いてゆく様子に関心が向いた。

「すみません、ICAスーパーマーケットにはここからどのように行けばよいのでしょう?」

道順を尋ねられた男性は、返答をするまえに、さりげなく一メートル半ほど後ずさりした様子が私には見えた。

そうなのだ。
「Welcome back!」とオフィスへ戻る勧告を促されても、一夜にして古き良き時代に戻れるわけではない。
過渡期にはいろいろと解決してゆくべき課題が多く挙がってくるはずである。

一人の上司の言葉が脳裏に浮かんだ。

「2020年の春、オフィスから自宅勤務へとなった過渡期には、慣れるのに時間が掛ったでしょう。今度は自宅からオフィス、過渡期にはいろいろと大変なことがあると思うの。でもいずれは慣れるはずよ、私たち人類は何百年も新しい環境に順応し続けて来たのだから」

幾度幾度も歩いた道

8.2.2021

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

幾度幾度も歩いた道

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夕陽の照り返しを受けて輝く湖を左手に、家路に就く。

普段よりも緩慢に歩いてゆくと、左右から通行人に追い抜かされる。

長身の人間の多い国である。

歩幅も広い。

決して盗聴をするわけではないが、狭い通路なので彼らの会話の一片は自ずと聞こえてくる。

「テストどうだった?」

「まあまあだったよ。それにしてもこの辺のアパートに住めたら最高だな」

「そうだな。毎晩、テラスに座ってこの景観を眺められるのは贅沢だな」

私の背後でその会話をしていた青年たちは、そう言いながら私を通り越して行った。

そのうちの一人はズボンを非常に低くまで下ろしていた、おそらく若い学生達であろう。

その直後、電話をしながら私の横を通り過ぎて行った女性がいた。

「私のプレゼンが長引いちゃってまたストップが掛けられちゃった。プレゼン制限時間の方が短すぎるのよね」

この女性は自分と携帯電話の世界に完全に入り込んでいる。

彼女にとって外の世界は存在しない。

どの会話も学校、住宅、仕事、すなわち生活一般に関する、たわいのない話題であった。

 

しかし違和感があった。

何故か?

昨年の今時分、頻繁に耳にした会話はこれであった「こんな生活にはもう堪えられない。パンデミックが早く終息して欲しい」。

すなわち絶望的な心情であった。それが今年に入ってからはあまり聞かれない。

人間とは慣れる動物であるからなのか、諦めたのか、絶望感を口に出すとさらに落ちて行くと感じているのか、もうすぐ終息すると信じているのか、あるいは、そのようなことを口にしたところで不毛であると感じているためか。

しかし、

一番打たれ強いと思っていた友人がついに、一昨日、弱音を吐露した。

「同じ道を毎日毎日歩くのもいい加減飽きたよ」

その友人も、私同様、昨年の三月から、地下鉄、バス等の公共機関は一切利用していない。従って行動範囲はかなり狭くなっている。

私の住んでいるところは島であるため、東西南北どちらへ歩いても美しい海と湖が臨める。この一年間、この東西南北への散歩を繰り返してきた。どの道を選んでも、春夏秋冬、それぞれの色彩を惜しみなく披露してくれている。

春、夏、秋はサイクリングをすることも可能であるため、隣の島までも足を延ばせる。さらに、雨雪が降っていない時は、隣の隣の島あたりまでサイクリングで足を延ばすことも可能である。

それでも多少飽きが来ていることは私にも否めない。

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パンデミックが蔓延し始める直前に新しい趣味を得た。

動画作りである。

それまでは美しい景観に遭遇しても携帯電話のカメラで気軽に撮り、ある程度満足をしていた。

それらは楽しむための画像ではなく、何時何処で何をしたかを思い出すための記録動画であった。

スウェーデンの冬は長い。

そして各家庭の窓際を飾る光の饗宴は眩く美しい。

湖の対岸の水面に映るマンションの灯りは非常に幻想的である。

しかし、私の所持していた携帯電話のカメラでは、私の視界に入るものをそのまま再現することは不可能であった。カメラを購入することにした一番の理由は、すなわち夜景が撮りたかったことである。

しかし、この決断がこの翌年を襲うことになる苦悩を緩和してくれることになるとは、購入した時点では想像だに出来なかった。

 

カメラを購入すると三脚が欲しくなる。

三脚を購入すると、さらに大きい三脚が欲しくなる。

動画を撮るときのジンバルが欲しくなる。

ジンバルを購入すると、ジンバル内臓のビデオカメラも欲しくなる…

編集ソフトを購入すると、という調子で機材と写真と動画の数は急速に増えて行く。

そのわりには撮影技能はまったく進歩していないが。

 

動画に関しては知人から、「ひたすら美しいだけで面白みがない」、などと叩かれてきた。

しかし、笑わせるための動画でもないのだ。

こちらの様子を撮影した挨拶用の動画、あるいは、参列出来なかった冠婚葬祭に贈るメッセージ動画等、主に挨拶状のようなものを現状下では会えない知人に向けて作成していた。 

さらに、パンデミックに起因して事業が営業不振になった知人達のために、宣伝用動画も作成させて頂いた。

そのうちの一件は、仲の良い女友達の寿司屋のための宣伝動画であった。

効果のほどはわからないが、こちらはミュージシャンおよびさくらも巻き込んで大掛かりに作成したものなので、非常に作り甲斐もあった。

 

「寿司をすごくきれいに撮ってくれて嬉しいよ」

と店主、すなわち友人の夫は目を細ばめながら喜んでいたと言う。

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.

店主は、通常はあまり感情を表わさない日本人男性であった。

健康上の理由により、彼は数か月前から店には出ていなかった。

1970年代のヒッピー世代に、いろいろな国で露店などを営みながらスウェーデンに流れ着き、寿司屋を立ち上げたという面白い経験をして来た人間である。

宣伝動画の次には、当時の事情に関して彼にインタビューをさせて頂こうと打診していた。

 

しかし、

そのインタビュー動画が実現することはなかった。

何故なら、その一週間後、彼は急患として病院へ運ばれ、その後、家にも寿司屋に再び帰れぬ人になったからである。

完成が間に合ったほうの宣伝動画には多大な時間と労力を要し、疲労困憊した。

しかし、これが50年の年月を欧州で奮闘した一人の日本人の最期の一週間を多少でも煌めかすことが出来たのであれば、作成した甲斐も意義もあったと言える。

仮に完成が一週間遅れ、宣伝動画が一度も彼の目に触れることがなかったのであれば、私は今でも無念の想いを抱いていたに違いない。

 

幾度も幾度も歩いた道に、飽きることもなく彩りを加えてくれたのは、このささやかな趣味であった。

そしてこのささやかな趣味は思いがけず、誰かを笑顔にすることが出来た、それがたった一刹那でたった一人だったとしても。

 

私は諸処の事情により、当分日本には帰国することは儘ならない。

ということは、幾度も歩いた道を、さらに幾度も歩き続けていかなければならない。

パンデミックの影響かどうかはわからないが、今一番尊いと思えることは、人生における大きな成功よりも、自分のささやかな行動を通して誰かを少しでも幸せに出来ることである。

さらに、もし欲張りを言わせて頂けるのであれば、明日も明後日もずっと元気に歩き続けて行きたい。

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北欧の夏至祭 蝉の音は何処から響く

7.2.2021

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

北欧の夏至祭 蝉の音は何処から響く

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この時勢においても夏至は北欧を訪れる。
まわりのスウェーデン人の様子は浮き立っている。

毎年6月に日本に帰国していた理由の一つに、夏至祭への参加を断る大義名分が立てられる、という点があった。
「夏至祭の時はスウェーデンに居ないので参加不可能」、と一言釈明すれば断わっても角が立たない。

 


北欧を紹介する旅行パンフレットには、夏至祭の様子を描いた画像がステレオタイプとなっていることが多い。
こちらが功を成したためか、多くの方が「夏至祭」と聞いて思い浮かべられるイメージは以下のものではなかろうか。

伝統的な造りの赤い家が地方を特徴づけるダーラナ地方において、それぞれの地方の民族衣装を纏った金髪の老若男女が手を繋いで、シリアン湖の周りで、夏至祭の歌をうたいながら、マイポールのまわりを楽しそうに踊る。

マイポールの上方には睾丸を模った二つの花輪がぶら下がっている。

いかにも楽しそうではないか、何の問題があるというのか?

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子供達を寝かしつけたあとの大人たちは、夜更けまで、あるいはあくる日まで、目尻を赤くして、覚束ない呂律で脈絡のないことを冗長に語りながら飲み更ける。

ここでは、マウントの取り合いなどなく、職業の貴賤もなく、みな平等に、半分眠りこみながら、とりとめのないことを議論している。
株の話、政治の話、スポーツの話、乗馬の話、車の話、配管の話、参加をしていない共通の知人の近況等々。

 

さらに、ここでは、知り合いか否かに拘わらず、男と女が森の奥、あるいは湖の方に消えてゆくシーンがあったりする。

実際に私が目撃したのは男女一組であった。

男性の方はやり手の法律家、長身、黒髪、そこに居るだけでエリートのオーラが漂っていた。
女性の方は、金髪碧眼、巷では美しい女性と讃えられていた。
スウェーデン人は、だれそれが美しい、という点に関して滅多に言及しないため、彼女に関するこの評価は印象に残っていた。

二人は目立たぬように手を取り合って森の中へ消えていった、遅くまで太陽の沈まぬ北欧の森の奥に、そしてそのさらに奥には湖があった。

二人とも婚約しており、結婚をすぐ直前に控えていた、それぞれ別のパートナーと。

スウェーデンにおいては、夏至祭のほぼ9か月後に産まれる子供の数が3割近くを占めているらしい。

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夜中をかなり過ぎていても祭りがおひらきになる兆しは感じられなかったので、私は、寝るためにあてがわれた小屋に入り寝袋を敷いた。
硬い木床はそれほど苦にはならなかったが、芳香に敏感過ぎる私にとっては、借り物の寝袋から漂う憂鬱な芳香に慣れるのに時間が掛った。

さらに苦になったのは、

その狭い小屋の中で、他の二人と川の字になって横たわる羽目になったことであり、何故か私は他の二人の真ん中に挟まれて寝ることになった。
その二人は、かつて恋人同士であったことがあった。
「何故もよりによって、私が、もとカップルの間に寝なくてはいけないのさ」、と状況が把握出来ないなりにも、一睡でもしようと努力し、朝の訪れをひたすら待った。

 

スウェーデン語があまり話せなかった頃は、スウェーデン人との会話術にもあまり慣れておらず、会話をしていても間が持たなかった。

果たして会話が続かない時間をどのようにやり過ごしていたか。

ひたすらビールを飲み、会話に仲間入りをするフリをすることにより、その場を繕っていた。

ビールを飲みすぎると無性に訪ねたくなる小部屋がある。

しかし、この時は、それを一晩中我慢せざるを得なかった。

 

いくら外が明るいとはいえ、森の中にある離れ家(肥料精製兼用のトイレ)に夜中に一人で行く勇気は到底なかった。

隣に寝ていた人達を起こして付き添いを頼もうにも、鼾をかいて爆睡している。
彼らの血液中のアルコール濃度の数値は半端でないはずだ。

夜の森の奥を凝望すると、往々にして、アイスホッケーマスクを被った男が今にでも出現してきそうな錯覚を起こしてしまう。

最近ではスウェーデンの「ミッドサマー」を舞台としたホラー映画までが出現し、話題になっていると聞く。

類似した景観が視界に入るとすぐにホラー映画を連想してしまう癖を治さなければ、自然の中では生活することは難儀になる。

 

夜の闇が完全に森を覆いきる暇もなく、次の日の朝が明ける。

二日酔いと寝不足の中で朦朧と朝食を取りに行くと、スウェーデン人達は、

「おはよう、元気かい? 素晴らしい朝だね」

などと清々しい顔で、清々しい挨拶を投げかけてくる。

北ヨーロッパ人と日本人では平均的に、アルコールを分解するALDH2(アルデヒド脱水素酵素)の保有量が違う、と言われている。
それにしても復活度の差が甚だしい。

 「おはよう、最高の気分よ、重度の嘔吐感を除けばね」

 と、こちらもかろうじて笑顔を作り、清々しく応答する。

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昼間に改めて、離れ屋(肥料精製兼用トイレ)のドアを開けてみると、この森の長い歴史に想いを馳せることが出来る。

木造トイレのドアを開くとその裏には、女優たちのほぼ全裸のカレンダーが数枚貼ってある。

いずれも色褪せていて、ところどころで画鋲が紛失していた。

そして、いずれのカレンダーも1960年代のものであった。
一体誰が貼ったのであろうか、家族は何と言ったのであろうか。

離れ屋のまわりに響くものは退廃的な蝉の鳴き声のみであった。
そこでは1960年代から時間が止まっていた。

すなわちこの森の中では、この一家の歴史がずっと刻まれて来た。
決して、排他的というわけではないが、この歴史は彼らだけが知るものだ。

同様に、夏至祭はスウェーデンの伝統的行事で、日本人にとって年越し行事が大切であると同等にスウェーデン人にとっては夏至祭は非常に大切なものである。

会社も休みになり、店も閉まる。

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夏至祭のお祝いに招待され、一応、形だけは他の人を真似て睾丸花輪のまわりで踊ってみてはいても、夏至祭に対して、スウェーデン人同等の思い入れはない。

そう考えると夏至祭への参加は重く偽善的なものに感じられてしまうのだ。

 

去年同様今年も、残念ながら、夏至祭への参加を断る理由として、「スウェーデンに居ないので参加不可能」という大義名分は使えない。

しかし、夏至祭はパンデミックのために中止になってしまったため、どちらにせよ参加をする必要も無くなった。

 

夏至祭のお祝いが中止になってしまった今日、あれほどこの行事を避けていた私の中でさえ、寂寥感が漂っていることは否めない。

夏至祭はスウェーデン人にとっては無比の大切な伝統行事であり、たとえ、同等の思い入れはないとは言っても他民族の伝統は出来るだけ尊重すべきだと思うからである。

 


 

北陸の海から北欧の海へ

6.2.2021

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

北陸の海から北欧の海へ

 

バルコニーからカモメの声が聞こえて来たら「そろそろ起床の時刻ですよ」という合図である。
カモメの姿は見えない。

寝ぼけ半分でコーヒードリッパーのあるリビングダイニングに向かう。
窓の向かいのビルは朝の陽光に照らされ、昨晩から衣替えをしている。
今日は明るくなりそうだ、と気分が浮き立つ。
北欧に住む人間にとっては、太陽の光を享受出来る短い刹那は至福の時間なのである。

リビングルームの窓を開き身体を多少乗り出すと、ビルの合間から、朝の陽光を受ける海岸の一隙が臨める。
海岸通りでは犬の散歩をする人、ランニングをしている人達が、右側から現われ左に消え、左側から右に消える。


3年前に現在のマンションに引っ越しをした。
第二の人生を始めるためであった。

ここはストックホルムのリヴィエラと称される新興住宅地である。
デザイン性を誇る海岸の前にお洒落なレストランが林立する。
夏は街中から海水浴者が集まり肉体美を競い合うトレンディ地区である。

やむを得ず夏季は彼らに譲るが、春、秋、冬季の海岸は返還して頂く。

海岸の一隙ではなく全貌を見下ろせるマンションを購入することも、住宅ローンの融資額を増額するか、あるいはかなり小規模のマンションを購入するのであれば不可能ではなかったが、今回は見送った。

何故か。

海の全貌を見下ろせるマンションを購入することは人生究極の理想であるからである。

私の人生はまだ志半ばである。
とはいっても私の志が果たして何であるのかは自覚はしていないが、それを見つけた時に晴れて海の全貌が臨めるマンションを購入する資格が出来る、そのような根拠のない私なりのジンクスがある。


****


私の父は、夕暮れ時が紅色に染まる北陸の海辺の町で生まれ育った。

しかし、

海沿いの別荘地も山間の別荘地もまだそれほど高額ではなかった時代、父が選んで購入したのは山間の別荘地であった。

エンジニアであった父は、会社を休職し、1年間1人で山に籠り、永年の夢であった「釘を一本も使わないログハウス」を建てた。

それが完成してからは、私たちは、濃霧の碓氷バイパスを背筋に冷や汗を流しながら経由し、深夜のログハウスに頻繁に出掛ける羽目になった。
私の青春時代は水着やワンピースよりも登山用ニッカズボンを穿いていた時間のほうが長かったかもしれない。
 
反面教師という言葉にもあるように、父が山への憧れを育めば育むほど、私は海への憧憬を深めていった。


父が亡くなって数年後、母が電話をして来た。
「そろそろお父さんの作業場を整理しようとしたらね、何が見つかったと思う?」

私は母の次の言葉を待った。

「夥しい数の船の模型が見つかったの。お父さんは本当は故郷の海に帰りたかったのかもしれないわね」

すなわち、 
北陸の海の町で生まれ育った父は、決して海に飽きたわけではなかったのだ。
それどころか海を愛していたのであろう。
しかし山への情熱も捨てがたく、海を離れたまま月日が経ってしまったのであろう。

 

私がこの海辺の町に根を下ろしてから20年の月日が経った。

この国はかつて「ゆりかごから墓場まで」という象徴語とともに、社会福祉国家の模範と称されていた。
しかしこの北国は、この国の言葉も文化も理解しない異邦人を常に温かく迎えてくれていたわけではない。

この国に対して、私は特に確執(かくしゅう)はないが、誰にも見えない所では号泣していたこともある。
この国に最後まで馴染めず帰国した友人達もいた。


しかし、毎朝窓を開け、温かい陽を頬に感じながら、コーヒーを片手に海岸の一隙を臨む瞬間、再認識することがある。

「幸福とはこのことなのであろう」

他人からみたら些少に感じられるであろうことでも、重要なことでもなんでも良いので幸運であった思えることを見つけてみるのである。

「今日は片頭痛が起きなかった」
「家族は今日も健康であった」
「バルコニーから差し込む陽射しが以前好きであった絵画を思い出させる」
「枯れたと思っていた胡蝶蘭が今年は満開になった」
「今日の米は透き通るように炊けた」
「どうしても思い出せなかった曲の名前を突然思い出した」
「嫌われていると思い込んでいた女友達から連絡が来た」
「ようやくクリスマスカードを一枚書き終えた」
「深雪の中で立ち往生していた時に見も知らずの人に助けられた」
「飛び入りで入ったレストランが予想を超えた美味であった」
「品揃えの豊富なアジア食材店を見つけた」
等々。

このようにリストアップをしてみると私のまわりは実は幸運で溢れていた。
これらひとつひとつの小さな幸せを集めて温存した小さな箱が、自分にとっては幸福という名前を持つものである。

 

生前、父は、私と娘達に、「日本に戻って来てくれる気はないのかな」とボソッと漏らした。
家族の希望することは大抵のことは叶えるようにしてきたが、これだけはどうしても叶えることは出来なかった。


朝、窓から臨む海の色は何故か緑がかっている。
そして、昼から夕方に掛けて、水面は徐々に空の色に染まってゆく。
ここは海岸という名前ではあるが、水面の名称はメーラレン湖である。
しかしこの水は旧市街近くの水門を通過してバルト海に繋がっている。

そして、すべての海は、結局世界のどこかで繋がっている。


今朝は、10時前に海岸に下りて行った。
北陸の海辺の町では十九時前、そろそろ空が紅く染まる時刻であったであろう。

「今年も事情があって帰国は儘ならなかったけれど、私は対岸の、すぐ近くの町で幸せに暮らしているから安心してね」、と桜と酒を海岸に供え、粛として海に話し掛けてみる。

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